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第二章:家康と三成~東西両軍の大将の人物像を探る~

 ここでは東西両軍の指導者、徳川家康と石田三成、両者の生涯、関ヶ原の合戦における動向と、姓名判断による両者の性格と運命について、述べてみようと思います。

 最初に、二人を軸とした慶長五年の動向を年表形式でまとめてみました。赤字は徳川家康青字は石田三成、黒字はその他の諸将の動向です。

[参考]家康と三成~両者の慶長五年の動向~

月/日 諸大名の動向
1月
2月

2/1

2/16
3/13
4/13
4/18
5/3
5/7
6/6
6/18

6/29
7/2
7/9
7/11
7/12
7/17
7/19
7/21

7/24
7/25

7/28

7/29
7/30
8/1
8/2
8/3
8/4

8/5

8/6
8/7
8/8
8/9
8/10
8/13
8/22
8/23
8/25

8/26

8/29
9/1
9/3

9/6

9/7

9/10
9/11
9/12


9/13



9/14

9/15


9/16
9/19
9/20
9/21
9/23
9/24

9/26
9/27
9/29
9/30
10/1
10/15
徳川家康、宇喜多家のお家騒動に介入、戸川達安親子と花房正成、宇喜多詮家らを預かる
島津、伊集院が、伊集院の島津家臣団編入で和議を結ぶ
長岡忠興に豊後杵築6万石を加増する
田丸忠昌を美濃兼山、森忠政を信濃川中島へ移封させる

堀直政、上杉家の動静について、大坂に注進する
前田玄以に宛てて、長岡幽斎から智仁親王への古今伝授について指示する
上杉家家老藤田信吉、江戸の徳川秀忠に景勝謀反を告げる
会津に家康からの詰問氏が到着する
豊臣秀頼の名代、京極高次と共に徳川家康が豊国社を参詣する
会津からの返書が伏見に到着
三奉行、徳川家康に出陣を思いとどまるように諌める
大坂城で会津討伐の軍議
伏見を出陣、大津で京極高次主従とを会談後、近江の石部を経て水口を駆け抜けたため、
動揺した長束正家は一行の後を追い弁明する
鶴岡八幡宮で戦勝祈願
江戸着
佐和山で大谷吉継に挙兵の計画を告げる
大谷吉継、石田三成と盟を結ぶ
安国寺恵瓊を招き、毛利輝元の参戦を打診する
毛利輝元、大坂着。三奉行、内府違いの条を諸国に発する
増田長盛より、三成の動静が家康に報告される
江戸を出陣
真田昌幸、石田三成からの書状を受け取り、親子兄弟が東西に分かれることを決める
小山に着陣、石田三成挙兵を知る
小山で軍議
伊達政宗、白石城を攻略
東軍先鋒部隊、小山を出陣して西上開始
伊達政宗、佐竹義宣に使者を送る
佐和山を出陣、攻撃中の伏見城に立ち寄る
大坂城に入る。真田昌幸に挙兵の相談をしなかった旨をわびる書を送る
西軍、伏見城を攻略
西軍、二大老三奉行連署による書を発す
前田利長、大聖寺城を攻略
上杉景勝、直江兼続の言を退け、秀吉への起請文を理由に家康追撃を中止
小山を出陣、福嶋正則に書を送る
江戸に帰城
大坂を出陣、佐和山城に入り、真田昌幸に書を送る
信幸が東軍に属した事を知り、重ねて真田昌幸に書を送る
伊達政宗に書を送る
前田利長と丹羽長重、浅井畷で合戦
美濃垂井に陣取る
大垣城に入り、真田昌幸、佐竹義宣に書を送る
東軍先鋒部隊、清洲城に到着
伊達政宗に百万石のお墨付きを発す
東軍先鋒部隊、岐阜城を攻略
東軍先鋒部隊、赤坂に布陣
西軍、安野津城を攻略
佐和山城に帰り、増田長盛、大谷吉継に書を送る
前田利長の東軍方としての活動を知る
岐阜城攻略を知り、福嶋正則に書を送る
隠密裏に江戸城を出陣、福嶋正則、黒田長政に書を発す
大谷吉継ら、関が原西南に布陣
京極高次、大津に篭城
徳川秀忠軍、上田城を攻めるも失敗、小諸に撤退する
島田に到着、書を福島正則に発する
毛利秀元、吉川広家ら、南宮山に布陣
上杉景勝、家康の江戸出陣を知り、善後策を協議、最上攻めを決する
徳川秀忠、小諸を出陣
清洲に到着、藤堂高虎と面会
増田長盛に書を送り、毛利輝元の出馬を促す
前田利長、金沢を出陣
直江兼続、米沢を出陣
岐阜着。前田利長、丹羽長重に書を発す
西軍、大津城を総攻撃、三の丸、二の丸を攻略
長岡幽斎、田辺城を開城
丹羽長重、前田利長に降伏
赤坂着
小早川秀秋、松尾山に布陣
関が原の合戦
京極高次、大津城を開城
大友義統、黒田如水に降伏
直江兼続、長谷堂城を包囲
小西行長、逮捕される
大津に着陣、前田利長と面会する
田中吉政に逮捕される
安国寺恵瓊、逮捕される
大津に護送される
毛利輝元、大阪城西の丸を出る
大坂に護送される
大坂城西の丸に入る
上杉景勝、関が原での西軍敗戦を知る
長束正家、自害
石田三成、小西行長、安国寺恵瓊を斬首
戦後の論功行賞を行う

 石田三成に関しては、7月に挙兵する以前の動向が全くわかりません。彼が諸将に送った書状も、その多くは破棄されたと思われます。

 ただ、真田家では、挙兵以降、三成が真田昌幸に対して発した書状を残してあり、これらによって西軍の対家康戦略をある程度、推測する事はできます。しかし、それらは軍の編成からして急ごしらえの観は拭えず、8月末以降、東軍の反撃を受けてからは完全に守勢に転じており、敗戦は必然的とすら思えます。

 これは関が原の一戦のみでもって西軍自体が崩壊してしまった事実からも明らかでしょう。

 一方の徳川家康に関しては、上杉征伐に対して早くから準備を行っていた形跡が見られ、石田三成の挙兵後は、急な戦略変更にもかかわらず、慎重に戦略を練って、根回しにも時間をかけ、戦いに臨んでいるのがわかります。

 恐らく、万一、関が原の合戦で退けられても、徳川秀忠や前田利長らと再度攻勢に転じたと思われ、いずれ、西軍はそれらに耐え切れず、崩壊したのではないでしょうか?

 次章では家康と三成の動向について、もう少し、掘り下げてみようと思います。