第一章:関が原の合戦に至るまで
関ヶ原の本戦を始め、各地の戦闘経過は第二章以下で、解説いたしますが、ここでは、慶長5(西暦1600)年9月15日の関ヶ原の合戦に至るまでの経過を簡単に述べておきます。文中の武将名について、赤字は東軍、青字が西軍、紫字が西軍から東軍へ寝返った大名、茶字は中立、その他です。
そもそもの発端は慶長3(1598)年8月18日、それまで、約100年に及んだ戦国乱世を終結させた天下人、豊臣秀吉が62歳で死去した事から始まります。
当時の常識から考えれば、秀吉の実子である秀頼が跡を継げば、何の問題もないのですが、秀頼は6歳とあまりにも幼少に過ぎました。
そこで、秀吉は配下の有力大名五人を五大老とし、秀頼が成人するまで、彼ら五人による合議制によって天下の政務を執行するように定めました。メンバーは徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の五人。
更に秀吉は自身の側近である古参、譜代の大名五人を五奉行とし、五大老と連携を取りながら、裁判、年貢の徴収を中心とする財務、法令の執行など、実務面で国内の統治を遂行するように命じました。五大老が宇喜多秀家を除けば、外様の大名で構成されていますので、彼らによる独裁を牽制する意味合いもあったでしょう。メンバーは浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以の五人。
ただし、五奉行は、浅野長政を除いて合戦の経験が少ない官僚的側面の強いメンバー構成であったため、武勇に長じた秀吉子飼いの老練な大名三人を三中老として、大老と奉行の調整役(私見ですが、実態は五奉行の補佐)を命じました。メンバーは堀尾吉晴、中村一氏、生駒親正の三人。(三中老に関しては実在を疑問視する意見もあります)
このように、秀吉の遺言に近い形で編成された五大老五奉行制度ですが、当初は有効に機能していました。彼らの最初の仕事は秀吉の命によって朝鮮に出兵中の将兵十数万人の撤退でした。一時は大老、奉行のいずれかが渡海して撤退の指揮を執るよう論じられましたが、島津義弘らの奮戦もあって、朝鮮、明軍の追撃を振り払い、慶長3年11月26日撤退完了。7年に及ぶ無益な戦いは幕を閉じました。
ところが、在鮮諸将の撤退が完了すると、五大老五奉行制度に、早くもほころびが見え始めます。
秀吉は遺言の中で、五大老の役割について、特に筆頭格の徳川家康は京都伏見城で政務を監督すべき事、一方、家康に次ぐ実力者である前田利家に対しては大阪城において秀吉の跡継ぎ、秀頼の守り役を務めるべく申し渡していました。つまり、軍事力等で諸大名中、圧倒的に優位に立つ家康を伏見に孤立させる代わりに、軍事力では家康の半分にも満たない利家に大阪城と秀頼を委ねることによって両者のバランスを保たせたのです。私見ですが、恐らく、秀吉は自分の側近衆でもあった五奉行の面々にも、家康と利家の力の均衡を保たせた上で、秀頼の成長を待つように、という意向を示していたでしょう。
ところが、肝心の一方の雄であった前田利家が翌慶長4年閏3月3日、秀吉の後を追うように死去してしまいます。これによって、既に大老筆頭の地位にあった徳川家康の台頭は決定的なものとなりました。
しかし、徳川家康の台頭を快く思わない勢力もありました。その中心にいたのが五奉行の一人、石田三成です。
三成は秀吉の生前、側近として、その威を借りたような行動などから、多くの大名から恨まれており、前田利家の死後、奉行職を解かれ、隠居を余儀なくされていました。
慶長五年、徳川家康は自らの意に逆らう同じ五大老の一人、会津の上杉景勝の討伐を決め、諸大名に出陣を命じました。
6月16日、家康は大坂を出陣して江戸に向かいますが、江戸に到着した7月2日と時を同じくして、石田三成は家康の留守を狙って、その討伐に向けた挙兵を決意しました。
7月17日には、毛利輝元を総大将、宇喜多秀家を副将として、増田長盛、長束正家、前田玄以の二大老三奉行の名で、徳川家康弾劾の檄文を諸大名に送付し、西軍が結成されて挙兵。
対する家康は上杉討伐軍として同行した諸将を味方として加え、以後、9月15日の美濃関ヶ原における決戦をハイライトに、全国各地で東西両軍に別れた諸大名の対決が繰り広げられたのです。
