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岡山城

岡山県岡山市。黒塗りの天守閣(復元)が印象的な平城。

岡山城復興天守
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復興天守。天守台が不等辺多角形という珍しい平面になっており、創建年代から、織田信長の居城、安土城を模したのではないか、とも言われています(安土城の天守台は不等辺八角形)。外観は2階建ての建築を3段に積み重ねたような古式な手法(望楼式天守と呼ばれる)で建てられています。右手前に大きく突き出た部分は塩蔵と呼ばれる付け櫓で、その裏側に天守への入り口があります。黒い下見板張りが一見武骨ですが、白い格子窓を多数設置しているので、軽やかな印象も与えます。写真は北西方向から眺めたもの。ちなみに現在は修繕工事によって鯱鉾などが金で飾られ、より華麗な印象を与えます。

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 創建は、かなり古いらしいですが、現在のような規模になる基礎は戦国時代末、宇喜多直家がこの地を居城に定めてからです。

 この宇喜多直家に関しては、暗殺や謀略ばかりが取りざたされ、とかく悪人扱いされています。

 祖父の代に一度は失脚し、流浪の身であった直家は宇喜多氏を武家として復帰させただけではなく、知謀を駆使して備前、美作(現在の岡山県の東半分)を統一しました。その課程において華々しい合戦の逸話はほとんどありません。彼の戦術の多くは標的とした敵指導者の暗殺、追放劇の繰り返しによって占められています。

 さらに、織田、毛利の大勢力に挟まれた中で両者を巧みに天秤にかけ、ほとんど領内に戦火を及ぼす事なく切り抜けた外交手腕は恐るべきものだと言わざるを得ません。合戦による領民、国内の疲弊や人的損失を最小限に抑えた戦略の徹底は優れた領主、政治家としてもっと評価されるべきでしょう。

 直家は天正9(1581)年に死去(翌十年説もあり)、その後、羽柴秀吉の後見によって子の秀家が跡を継ぎました。現在の本丸周辺が石垣や天守閣で整備されたのは秀家の時代だと思われます。

 宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍に加わったため、領地没収。その後、小早川秀秋が岡山城主になりますが、そのわずか2年後に急死、子がいなかったため、小早川家もまた断絶しました。

 小早川家の後に岡山城主に就いたのが、姫路城主、池田輝政の次男忠継です。母は徳川家康の娘である督姫、つまり忠雄は家康の孫にあたります。この頃、池田一族は姫路をはじめ、鳥取、淡路島も領有、「西国将軍」と呼ばれる一大勢力を誇りました。まだ大坂城に豊臣家が存在していた当時、池田家が豊臣家と中国、四国、九州の外様大名との間に打ち込まれたくさびの役割を担っていたわけです。

 こうして池田忠継の入城によって更に岡山城は拡張整備されていき、そのまま池田家の居城として明治維新まで栄えることになります。

 明治維新後、天守閣など、主要な建築物を除いて取り壊されますが、天守閣は太平洋戦争による空襲で消失、現在は外観を再現して復元されています。また、月見櫓と西の丸西手櫓が現存(重要文化財)しています。

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天守入り口付近、南西方向から天守を見上げて。手前が入り口。

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天守南側正面から見上げてみました。下に向かうに従って極端なほど、末広がりな構造です。銃丸や石落としの類がほとんど見当たりませんね。

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月見櫓。上の写真は城内側から見たもので、2階は雨戸を取り払えば、その名の通り、茶会などの風流の場に使えます。同時に本丸中段(表書院)の北西守備の役目も担っていて、外側は格子窓や銃丸が備えられています。下の写真が外側から見たところで、2階の唐破風や1階の格子窓など、小振りな建物の割に洒落た外観になっています。

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宇喜多秀家公花押携帯ストラップ/キーホルダー


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