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岐阜城

岐阜県岐阜市。濃尾平野を見下ろす金華山に築かれた山城です。随所に遺構も残っていますが、とにかく山上からの眺めが圧巻です。

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二の丸から本丸に登る石段の途中から撮影した模擬天守

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 標高329m、濃尾平野を一望できる金華山頂に城郭が築かれたのは鎌倉時代にまでさかのぼります。永禄年間末に織田信長によって岐阜城と名づけられるまでは稲葉山城、あるいは井の口城と呼ばれていたそうです。

 この山は強固な岩盤で出来ているため、飲料水の確保が困難であるという致命的な欠点があります。ですから、築城時は見張り台の一種という意図の元に築かれたと思われます。基本的に城主は山麓か、山を下りたほど近く、加納の地に館を築き、そこで生活、政務を執っていたようです。

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本丸下にある井戸跡。ただし、自然に水が湧くのではなく、雨水を溜めるために掘ったものだそうです。
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同じく本丸近くにある「金銘水」と呼ばれる軍用井戸です。井戸というより、岩盤を掘った溜め池という趣があります。今は苔、藻の類がビッシリ。

 応仁の乱を機に世が戦国時代に突入すると、美濃国守護である土岐氏が没落、代わって家老の斎藤氏のそのまた家来にあたる長井氏が台頭してきます。もともとは法華宗の僧であったという長井新左衛門尉とその子利政は二代で主の斎藤家ばかりか守護の土岐氏をも滅ぼし、自ら斎藤氏を名乗って、美濃の国主の座につきます。この長井利政こそが戦国時代、下克上の代表的人物として北条早雲と並び評される斎藤道三です。

 しかし、長井親子の謀略を駆使した強引な御家乗っ取りのやり口は隣国の戦国大名ばかりでなく、国内の諸豪族の反発をも招いたのでしょう。用心深い道三は居城を堅固な山城である稲葉山に定め、それまで居館としていた加納から移りました。恐らく、このときに現在の天守閣ほどではないにせよ、それなりの建築物を山麓と山頂に築いたのではないかと思われます。美濃国主としての実力、威光を見せつけるためです。

 その後、道三は国主の座を子の義龍に譲り稲葉山城も明渡して近くの鷺山城に移りますが、両者は対立、親子は戦で相争うことになります。

 これについては道三が義龍を廃嫡して弟のいずれかを後継者に据えようとしていたとか、義龍の実父が美濃の守護、土岐頼芸であったためだとか、諸説ありますが、道三自身が居城を明渡して一旦は家督を譲ったに等しい形をとっていることを考えると、理屈にあいません。むしろ、道三の娘婿である織田信長との関係が最たる理由であったように私は思います。結局、美濃の諸将の大半は義龍に味方し、岐阜城下の長良川の合戦で敗れた道三は討ち死にしてしまいます。


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斎藤道三の花押携帯ストラップ/キーホルダー



 道三の死後、織田信長は義父の仇討ちという大義名分を掲げて、美濃への侵攻を開始します。約10年に及ぶ攻防戦の末、信長は稲葉山城を攻略し、肥沃な濃尾平野を確保した大大名にのし上がります。このときに「岐阜城」と名を改め、現在、発掘された遺構などで見ることが出来る体裁に完成させたと思われます。

 信長は約10年間、岐阜を本拠として諸国で戦い、勢力を広げますが、天正4(1576)年に近江安土に移り、代わりに信長の嫡男、信忠が入りました。しかし、天正10年に本能寺の変によって信長、信忠親子が自刃してしまい、以降、めまぐるしく城主が入れ替わることになります。

 信長の三男信孝は、在城1年と経たない内に、羽柴秀吉に敗れて自刃、続いて岐阜城主に納まった池田元助も小牧長久手の合戦で討ち死にし、元助の弟輝政に代わります。

 輝政は5年間と比較的長期にわたって岐阜城主の座にあり、天守の形状を含め、城址を現状に近い形に改修したのは輝政であったようです。しかし、輝政もまた、秀吉による全国統一を機に三河吉田へと移り、替わって秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が入りますが、朝鮮出兵に動員された末、翌年病死してしまいます。

 最後の城主となったのが、信長の嫡孫にあたる織田秀信です。しかし、程なくして豊臣秀吉が死去し、その後継者を巡り、徳川家康と石田三成をはじめとする反家康勢力の争いが激化、慶長5(1600)年に両者は武力衝突に至ります。このとき、秀信は石田三成らを中心とする西軍に加わり、岐阜城は両勢力の境目、最前線に位置することになります。8月23日、池田輝政、福島正則を先鋒とした東軍諸隊が岐阜城に攻撃を開始、急峻な山道をものともせず攻め寄せる猛将たちの前に、秀信は1日と持ちこたえることが出来ずに降伏してしまいます。その後、9月15日に行われることになる関が原での決戦を前に東軍の優勢を決定付けさせた戦いでした。

 秀信は命は取られず、高野山へ追放処分となりますが、そこで26才の若さで亡くなります。岐阜城は山城であることが嫌われたのか廃城となり、城内の建物や石垣は撤去され、新たに築かれた加納城へと移されてしまいます。

 現在は山麓部分にわずかながら石垣や土塁が残されており、山頂部分には復興天守閣が立っています。ただし、天守台の石垣は遺構を壊して新たに築いたものです。築城時の石垣も一部見ることが出来る他、井戸の代りを成した溜め池があります。山頂からの眺めは絶景で、濃尾平野を手に取るように望むことが出来、当時の戦略的な重要さが偲ばれます。

 夏季には夜景も見られますので、歴史に興味のない方にも是非、訪れてもらいたい場所です。


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織田信長の花押携帯ストラップ/キーホルダー











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山麓の御殿跡の門と考えられる部分の遺構。根っこの部分に巨石が並ぶ土塁が圧巻。
この土塁や石垣が実際は更に高いものであったのかは不明です。写真左端に見える柱は掘建て柱跡で、番所か厩のようなものが建っていたと考えられます。この土塁に沿って更に右に進んで左に曲がると、下の写真のようになります。
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奥に見える建物は山頂へと伸びるロープウェイの駅です。道は更に右へ屈曲しており、これを曲がると…
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小さな石を敷き詰めた石畳が現れ、この付近が何か特別な場所であったことを窺わせます。道の右半分が不自然に掘られてありますが、この下には一度火災に遭っている、更に古い時代(斎藤氏時代?)の石塁の遺構があり、それが見られるようになっています。古い石塁に使われている石が小さいことがこの写真からも分かりますね。
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これは上の写真の通路から左に外れた部分に見られるのですが、石で積まれた水路の跡です。






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約40分、大手道を上ったところで城の中枢部に到着。門をくぐった先が三の丸で、左上方にはこの付近を監視する櫓がありました(現在はロープウェイの駅や展望台)。慶長5年の岐阜城攻防戦でも、この付近で城兵が抵抗したそうです。
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更に進むと二の丸門へ。道が屈曲しており、防衛上の配慮がなされています。手前の手すりの所に大きな石が見えますが、これらは築城時に積まれた石垣のようです。奥の石塁や塀、門は近年のものです。

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二の丸から見た天守。この模擬天守は後に加納城に移されたという三階櫓の図面を参考に建てられたらしいです。ただし、信長時代とは形状が違うと考えられています。

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天守の根元の石垣を撮影したものです。上の方の光ってしまっている小さめの石で積んだ部分は近年の模擬天守建築工事に伴って築いたもの。で、手前の石垣が築城当時の石垣です。

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天守閣最上階から名古屋方面を見たもの。
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これは西方、長良川を経て大垣、関が原方面を望んだ写真。霞がかっていて、さすがに関ヶ原までは見通せませんが。
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上の写真とほぼ、同じ方向で夜景を撮影したものです。

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池田輝政の花押携帯ストラップ/キーホルダー


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