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松本城

長野県松本市。黒塗りの国宝天守閣が美しい平城。

夕日を浴びる松本城
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 信濃の国(現在の長野県)は山が多く、その合間に開かれた盆地、平地に人が住み、経済的中心となっていきました。なかでも、松本平は河川が多く流れる肥沃な土地で、位置的にも国の中心にあたり、室町時代、守護の小笠原氏は、この松本平を望む山城、林城を居城としていました。

 この頃の松本城の位置には豪族坂西氏の居城である深志城がありました。ただし、その規模は小さく、現在の本丸、あるいは二の丸を含んだ地域内に館を建て、堀を廻らせた程度のものであったと思われます。

 ちなみに深志は「深瀬」の読みが次第に変わっていったものと言われていて、当時、周辺が泥湿地帯であったことを窺わせます。

 深志城が生まれ変わったのは戦国時代の天文十九(1550)年、武田信玄が小笠原氏を信濃から追い払ってからです。信玄は占領した松本平を守る以上に、ここを拠点に更なる勢力拡大を目論んでいました。そのため、それまで小笠原氏が居城としていた難攻不落の山城である林城を使わず、大量の将兵、物資を集結できる拠点として、平地に新城を築くことにしたのです。そこで信玄が目をつけたのが、深志城でした。

 信玄によって深志城将に任じられた重臣、馬場信房は城に大規模な修築を加えました。中心の本丸をコの字形の二の丸で囲み、更にそれを広大な三の丸でぐるりと囲むという形で、当時としては珍しい巨大な平城、深志城が完成しました。この構造は後の松本城にも基本的に受け継がれることになります。

 その後、信玄は深志城を拠点として信濃を平定し、更に関東、東海地方へと進出していきましたが、織田信長との争いのさなか、元亀四(1572)年に死去、深志城主の馬場信房は天正三(1575)年の長篠の戦で討ち死にし、武田氏自体も天正十年の織田、徳川連合軍の侵攻で滅亡しました。しかし、その年の内に本能寺の変が起こり、深志城主は武田~織田~上杉~徳川とめまぐるしく変わります。結局、徳川家康の勢力を背景に旧信濃国主の流れを引く小笠原貞慶が入城したことで、一旦は落ち着きます。この時に小笠原氏にとっては侵略者であった武田氏によって拡大、整備された深志城の名を嫌ったのか、「松本城」と名を改めたようです。

 松本城が現在のような石垣と天守閣をはじめとする建築物で形作られたのは、天正十九(1591)年、関東の北条氏が滅亡し、徳川家康と共に小笠原氏も関東に移って後、豊臣秀吉の家臣、石川数正が松本城主10万石を与えられて入城してからです。

 数正は秀吉の天下統一で新たな時代がやってきたことを領民にも知らしめるため、それまで、信濃国内では見られなかった壮大な城郭を松本に築くことにしました。本丸を石垣で固め、外観五階建ての巨大な天守閣をはじめとする建造物はこのような意図の下に築かれたのです。

 しかし、元来、湿地帯で地盤のゆるい地域であるため、石垣の構築や天守閣の建造は難航を極めたといわれています。このため、石垣の高さは最大でも5~6mと低く抑えられ、勾配もゆるいです。

 数正は築城半ばの文禄元(1592)年に死去、子の康長によって工事は引き継がれました。こうして完成した城は、本丸全域と二の丸太鼓門、三の丸大手門を石垣で固め、要所に櫓を築き、三の丸の外には城下町を南北に開発しました。現在の長野県内最大の都市となる基盤はこのときに築かれたわけです。

 江戸時代に入ってからも城主の交代はめまぐるしく、石川~小笠原~戸田~松平~堀田~水野~幕府天領~戸田氏と経て、明治維新を迎えました。その間、徳川本家の一族でもある松平直政時代(1636~38)に、天守閣に加え、辰巳付櫓と月見櫓が増設されました。

 明治維新後、一度は破却の話もありましたが、地元有志の尽力が実り、天守閣の保存が決定、国宝に指定され現在に至ります。

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天守閣を南東方向から見たもの。右側にある赤い廻り縁の見える建物が月見櫓。江戸時代に追加された平和な時代の象徴です。
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天守の北西面。こちらからみると無骨で力強く見えます。見る角度によって印象がまるで変わるのが、松本城天守の魅力です。
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上の写真の角度から天守最上階をズームアップ。右側の鯱が妙な形をしているように見えますが、実は鳶の夫婦(?)が留まっているのです。
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天守の北東面。大天守と小天守の間に入り口があることが判ります。'93年頃の写真ですが、この日は行列が出来てました…
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北東方向間近から大小天守を見上げてみました。こうして見ると黒い下見板に多数の銃眼が空けられているのがわかり、戦闘を意識した建築である事を認識させられます。
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更に大天守に近づいてみて撮影してみました。幾重にも重なる軒が美しくて、かつド迫力。
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北側からズラリと連なる天守群を撮影してみました。整然と並んだ図面のような構図で…自分でも、「こんな構図もあるんだな」と、気がついたのは6回目くらいに城を訪れた時でした。
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最も美しい構図である天守群南西面の写真。中央天守の左に乾小天守、右側に辰巳付け櫓と月見櫓が接続しています。白い漆喰と黒漆を基調とし、月見櫓の赤い高欄が華麗な印象を与える素晴らしい建築です。創建当初は月見櫓がなかったそうなので、より武骨な印象が強かったでしょうね。石垣に沿って多数の石落しが設置されているのは、石垣の低さゆえかもしれません。
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内堀に天守が写っている姿を合わせて撮影してみました。
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二の丸御殿址より天守閣南面を見たところ。こうして遠目に見ると、天守閣上部が頭でっかちに見えます。これは築城当初、四方に展望の利く望楼のような形状であったものが、寒さ対策のために壁で囲うように改修した為と言われています。建築当初は犬山城などに近い外観であったのかもしれません。
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本丸から天守閣南面を見たところ。小天守や付け櫓を従えた力強い姿です。


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天守3階(?)の内部です。納戸…倉庫のような役割を果たしていたように思います。
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天守閣最上階天井部分の木組みです。大小の梁が複雑に組まれています。こういう部分が露出しているのも珍しいですね。

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松本城縄張り図
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 ここには収まりきれませんでしたが、城下町は城の東側を南北に開かれていました。図中の黄色部分が町や武家屋敷にあたります。緑の部分は深田か湿地帯で、敵の攻撃を受けた際、北から東にかけて軍勢の進退に苦労するよう、あえて放置されたようです。

 本丸内にはDの天守群の外、御殿が建っていました。二の丸にはAの位置に藩庁にあたる二の丸御殿、Bの位置に築城開始時に石川数正が居住し指揮を取った古山寺御殿があったほか、米倉などが建ち並んでいたようです。三の丸には上級家臣の武家屋敷がありました。

 三の丸から南方に向かって、石垣で固めた枡形をなしている大手門が開かれていますが、残る四ヶ所の門は前面に半円形の堀と土塁が築かれた丸馬出しになっています。これは甲斐武田氏が好んで使用した防御施設で、この城が武田氏時代の様式を色濃く留めていたことを示しています。大手門の他、二の丸太鼓門と本丸黒門が石垣積みの枡形構造で近世の様式で築かれています。

 本丸全域と二の丸太鼓櫓周辺、三の丸大手門周辺が石垣積みで残りは土塁と塀で囲まれていました。赤印は櫓ですが、本丸の東面は廊下状の多門櫓で防備されています。三の丸に多くの櫓があるように見えますが、これらはどれも平屋作りで櫓と言うよりはむしろ、番所のような建物です。二の丸の櫓は二階建ての重層建築です。

 目に付くのは三の丸の広大さです。門も四方に向かって開かれており、防衛的見地よりも軍勢の駐屯地、出撃用の拠点として築かれた、武田信玄築城時のこの城の特性が窺えます。

 珍しいのはCの位置に架けられた木橋で、普段は塀のように立てかけられており、緊急の場合に板を倒して橋とする構造になっており、足駄塀と呼ばれていました。残念ながら現存しておらず、現在Cの位置には立派な橋が架かっています。

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城の南側外堀を兼ねた女鳥羽川の現況。それなりに趣があります。
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旧城下町にある牛つなぎ石。かつて、武田信玄が北條、今川両氏から塩留にあった際、越後の上杉謙信が信濃に塩を送り、その荷を積んだ牛がこの石に繋がれたという伝承が残っているそうです。

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松本城の城門

松本城の縄張りは武田氏によって築かれた深志城を踏襲していたように思われます。これは三の丸から四方に向けて開かれた門のうち、大手門を除く四ヶ所が武田氏の築いた城郭で見られる丸馬出しである事から推測できます。

更に城の構造について踏み込んで言うなら、複雑な地形や構造を施した難攻不落の城郭というよりは、広大な平地を取り込んだ大城郭として、言い換えれば、軍勢の駐屯地として築かれた「攻めの城」という意図のもとに築かれた城郭であるように思われます。

しかし、戦国の世が終息すると、松本城はそうした役割を失い、松本平野の政治、軍事の拠点を担うようになります。そこで、新たに松本城主として入った大名各氏は松本城を独立した要害として改修を加えます。そんな中で築かれたのが本丸の黒門と二の丸の太鼓門、そして三の丸の大手門です。

これらの内、大手門を除く二門が現在、復元されています。そこに施された防衛上の工夫について、簡単に触れておきましょう。

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まずは太鼓門周辺を図示してみました。二階建の櫓門である太鼓門の手前に高麗門を置き、両サイドに石垣と塀で囲んだ空間を突き出す事によって、枡形を構築し、敵の侵入を防衛する工夫が取られています。また、この図には収まっていませんが、門に向かって左側には二階建の辰巳櫓があり、そこからの支援も得られるようになっています。 高麗門の手前で橋の幅が狭くなっているのは、侵入する敵の勢いを削ぐためで、逆に城内から出撃するのに便利な構造でもあり、城郭では良く見られる手法です。また、高麗門を抜けると、石垣に突き当たるので、一度右に屈曲させて太鼓門に向かわせると、こうして侵入した敵の進路、目線を動かす工夫が凝らされているのも、城門の特徴です。高麗門を突破されても、一旦立ち往生を余儀なくされた上、三方から攻撃を受けてしまうわけです。
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三の丸から見た太鼓門の外観です。手前が高麗門で右奥に太鼓門が控え、両脇に塀に囲まれたせり出した空間があり、侵入する敵を威圧する配慮が窺えます。時を告げたり、様々な合図に使われる太鼓は、門の上の櫓内ではなく、右手の塀の裏側に鐘楼を建て、そこに据えられていました。 高麗門の向こうに大きな石が見えるかと思いますが、これは城内の石垣中、最大とされる玄蕃石で高さ約4m、周囲最大約7m。あまりの石の大きさに不平をもらした人夫を、築城を指揮していた石川康長が見せしめの為に斬り捨て、工事を督励したと言われています。
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枡形内から見た玄蕃石。城主の威光を示すため、こうした大型の石は要所に効果的に配置されました。
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枡形内から見た太鼓門です。上から見下ろされた感じで、圧迫感があります。
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太鼓門を抜けて、二の丸側から見た太鼓門です。左側の石垣上に太鼓を据えた鐘楼があったといわれています。

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天守のある本丸へ通じる黒門周辺を図示してみました。枡形の大きさなど、若干太鼓門より大きめに築かれています。 基本的な構造は太鼓門と同じですが、櫓門が"┓"状に屈曲している事と、門に向かって左側に櫓などはない代わりに大きく石垣がせり出しており、そこから門を援護出来るように工夫が施されています。
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黒門の外観です。本丸への通用門であるという格式の高さと言いますか、太鼓門と比べると整然とした印象を受けます。
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枡形内から見た黒門です。二階櫓部分が手前に突き出ており、より堅固に築かれています。


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