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難波田城

埼玉県富士見市。私の自宅近くにある城跡です。古民家なども移築されていて、意外と和めます。

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本郭跡は宅地化しており、城が存在したことを示す石碑の建つスペースのみが残されています。

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 もともとは武蔵国内に古くから割拠していた武士の一流である難波田氏の館があったものが、戦国時代に城郭へと改修されたようです。近くに荒川を中心にその支流、柳瀬川や新河岸川が流れていたので、周辺は水が豊富であったようで、水堀に囲まれた平城として整備されていました。

 難波田氏は室町幕府初頭から、関東の有力武士として戦乱に関わっていますが、戦国時代に入ると関東管領上杉家の一流である扇谷上杉氏の家臣として、当主善銀は北条氏と各地で戦います。しかし、天文十五(1546)年の川越の夜戦で北条氏康の奇襲を受け、主君上杉朝興とともに難波田善銀も討ち死に、難波田館は北条氏に接収され、生き残った一族は北条家に仕えたようです。

 北条氏支配下となって以降の難波田城の動向は不明ですが、江戸と川越のつなぎの位置にあたる城として地域支配に利用されたと考えられます。

 天正十八(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐に際しては記録がないので、ほぼ無血開城に終わったと思われ、その後に関東の支配を任じられた徳川家康によって廃城となりました。江戸時代には十玉院というお寺があったそうです。

難波田城の縄張り(概略図)
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 水堀で区画された平城としての構造は見事なものですが、敷地が狭いので、重層の建造物はなく、はしごを組み合わせたような井楼櫓が物見用に建てられていた程度だと思われます。本郭に城主が居住していたとしても、現在遺構が残るあたりに人が住めたとは思えません。番所などの防御施設で一杯のはずです。長期に渡る篭城戦に臨む事は無理であったと思います。

 搦手を入ったところが二の郭という伝承がありますが、蔵があったそうですし、スペースも広く、家臣の屋敷もあったはずです。もしかすると築城当初はこちらが大手であったのかもしれません。現在、遺構が見ることが出来るのは本郭より南、馬出し状に突出した二の郭からこれを囲む三の郭、さらに四の郭の一部です。このあたりの構造は小田原北条氏の築城技術が導入されているように思います。いくつか、孤立した郭が見られますが、墓地や宗教上の施設、蔵などがあったのでしょう。

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大手門跡に復元された門。ここから水堀で区画された三つの郭を経て、本丸(門の向こうに見える家のあたり)へ至ります。

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手前の橋は当時はありません。堀を隔てた右岸が四の郭、その奥、東屋風の休憩所の見える所が三の郭、更に奥の赤い植木の見えるあたりが二の郭で、その向こうの家の建つあたりが本郭です。堀の幅や土塁の高さこそ小さいものの、立派な城郭であったことが分かります。

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上の写真は四の郭から見た三の郭で、土塁と水堀が見られます。下は四の郭から三の郭に至る門の跡で、敵の侵入を阻む食い違い虎口になっています。

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上の写真は三の郭から見た二の郭。発掘調査から、橋の幅が三の郭に向かって広くなっていたことが分かり、攻めこむのに不便で、なおかつ出撃するのに便利に作られていました。 下の写真は逆方向から見た三の郭(右)と二の郭。

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城とは関係ありませんが、明治初期に建てられた古い民家が移築してあります。 四の郭の西にあたるこのあたりは当時、水堀でした。













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