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駿府城

静岡県静岡市。徳川家康の隠居城であった平城。だいぶ破壊されていますが、一部、門などが復元されています。

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本丸跡に建つ徳川家康公の銅像…ちなみに右下に写るのは人魂ではなく、雨粒です。

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 駿府は「駿河国府」、「駿河府中」を略した呼び方です。それこそ、武士が台頭する時代以前から地方政治、経済の中心として栄えていたわけです。

 室町時代に駿河国の守護に任じられた今川氏はこの地に館を築き、後には戦国大名化していきます。この頃の館には現在の県庁周辺や、駿府城公園を取り巻く巨大な堀や石垣はなく、方形の敷地に館を建て、その四方に堀を掘って土塁を築いた程度のものであったと思われます。ただし、駿府城址の北西2kmの地に賎機山城という山城があり、戦時にはこの地に立て籠もるという考えを持っていたようです。

 永禄11(1568)年、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏は滅亡、駿府は戦火にさらされてしまいました。武田氏の駿河領有は十数年に及びますが、駿府は戦略的にも、それほど重要視されなかったようです。

 天正10(1582)年に武田氏は滅亡し、駿河は徳川家康の領有するところとなりました。同年6月2日の本能寺の変以降、家康は駿府城を新たな居城と見定め、天正13年に工事を開始しました。これが現在の駿府公園内、本丸から二の丸にかけての範囲ではないかと思います。ただ、現状と構造はまったく違ったかもしれません。

 駿府城がようやく完成した直後、家康は秀吉の命によって江戸に移りました。代わって駿府城に入ったのが、秀吉の家臣である中村一氏でした。しかし、中村氏も慶長5(1600)年の関が原の合戦後には米子に移り、駿府は再び徳川家の領有するところとなりました。家康は駿府を自らの隠居所として、将軍職を子の秀忠に譲った後、再び、駿府城の改修をはじめました。現在、我々が目にすることが出来る駿府城の遺構はこのときのものです。

 城の構造は至ってシンプル。方形の本丸をロの字型の二の丸、それを更に三の丸が囲む形で、随所に石垣が屈曲して側面から侵入者を狙撃できる構造が見られます。

 大手門をはじめとする三の丸への通用門は思ったほど、堅固には仕上げていなかったようです。最終的な築城工事が終わる前に豊臣氏の滅亡、家康の死といった、城を堅固にする必要性を失わせる事態が起きたためかもしれません。

 一方で二の丸、および本丸への通用門は全て枡形構造で防衛力は格段に上がっています。これらの通用口に向かう橋は全て木造で、いざとなれば切り落とすことも出来ました。また、本丸全域は櫓で囲まれていて、それだけで充分、要塞として機能できたと思われます。

 珍しいのは水門の存在で、物資を堀から直接、船で荷揚げしていたようです。天守の形もまた珍しいもので、通常、天守台いっぱいの敷地を利用して天守閣は築かれるものですが、駿府城では天守台の四隅に隅櫓を築き、これらを渡り櫓でつないで天守郭とし、その中央に天守閣を築くという手法が取り入れられていました。

 家康の死後も駿府城は徳川幕府にとって、関東への入り口を守護する重要拠点として機能しましたが、明治維新から戦後にかけての開発で建物はもとより、天守台などの石塁まで破壊され、堀も過半が埋められたことは残念でなりません。

 二の丸の堀は残っており、そこに復元された二の丸東門と巽櫓が当時の壮大な城郭を想像させてくれます。




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復元された二の丸南東方向を守備する巽櫓とそれに連なる東御門。

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これも東御門。悪天候で夕方…最悪の条件下で撮影したものです。
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東御門を正面から撮影したもの。左右に開かれた銃眼とその向こうの枡形を囲む石塁と多門櫓が威圧感充分です。手前の門をくぐって右手の建物が櫓門になっており、これを突破しないと城内には入れない仕組みです。
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公園内で発掘された本丸の堀と石垣です。今となっては破壊した事は残念と言う他ありません。


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徳川家康公の花押携帯ストラップ/キーホルダー



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