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平将門首塚

都心に鎮座する伝説の地。戦後の進駐軍すら手を付けるのを止めたと言われている。

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真新しい石碑。ピンクの付箋らしきものが中央下に見えますが、「お酒をかけてはダメ!」と書いてあります。

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 平安時代の天慶2(939)年、時の大和朝廷を震撼させたのが関東武士、平将門の乱でした。将門の挙兵自体は常陸国、今の茨城県で起こったのですが、何故か将門の首塚は都心のど真ん中にあります。京都に晒された将門の首がここに飛んできて、以来、奉られるようになったと言われています。

 実際、徳川家康が江戸に入部した頃から、このあたりには神社があったそうです。徳川氏の世となり、江戸城が巨大化するにつれ、この地の神社は神田に移され、神田明神となりました。

 江戸時代は譜代大名酒井家の屋敷が建っていたそうです。恐らく、首塚は残され、付近は庭園として利用されたのでしょう。ちなみに仙台藩のお家騒動として知られる伊達騒動の裁断はこの地で下され、仙台藩家老原田甲斐守宗輔、伊達安芸守宗重らが討ち果たされたのもここです。

 この首塚の存在を有名にさせたのは祟りの伝説です。大正時代、関東大震災の後に首塚を破壊して大蔵省の仮庁舎を建てたところ、時の大蔵大臣が急死したのをはじめ、大蔵省職員や仮庁舎の工事関係者に負傷者が続出し、神田明神に鎮魂祭をお願いし、首塚を再建した事。そして、太平洋戦争後、進駐軍がこの地に駐車場建設を強行したところ、工事車輌が横転するなどの事故が起こり、結局、工事が中止された事がよく知られています。ここで不思議なのは徳川氏の江戸入城に際しての神田明神の移転や武家屋敷の造営に関しては祟りの類は記録にも出ていないことです。

 個人的には、祟りを否定するつもりはありませんが、その原因は将門ではないと私は考えています。

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真新しい石碑の裏に古い首塚を示す石塔があります。多分、江戸時代のものだと思うけど…



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