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姫路城

 兵庫県姫路市。世界遺産指定を受けた国宝天守閣は一度は見ておきたい。かほどに見事な城郭遺構はないでしょう。

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 世界遺産、国宝として名高い姫路城ですが、現在のような規模になったのは慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦後、池田輝政が入城して大改装したことによります。

 それ以前は現在、天守閣がそびえ立つ姫山と西の丸にあたる鷺山が、それぞれ独立していて、砦や寺社が存在していたようです。

 南北朝から室町時代にかけて、播磨国(現在の兵庫県)の守護は赤松氏でしたが、戦国時代に入ると守護の勢力は弱まり、別所氏、小寺氏といった勢力が台頭し、互いにしのぎを削っていました。

 この頃の姫路城は小寺氏の領国支配における、有力な支城として機能していました。城主は小寺氏の家老の黒田氏、主君小寺姓を名乗ることが許されたほど信頼された関係にあったようです。

 黒田家は孝高の代、尾張から中央を制圧していた織田信長に接近し、中国地方への派兵を勧めました。これに応じてやって来たのが羽柴秀吉です。孝高は秀吉を主君と仰ぎ、姫路城を譲りました。このときに、現在の複雑な城内の基礎が整備されたと思われます。

 その後、姫路城は織田信長の命によって、中国地方平定軍の大将に任じられた羽柴秀吉の居城となりました。この頃の姫路城には三階建てくらい、現在の国宝、犬山城クラスの天守が存在していたと思われます。

 本能寺の変を経て秀吉が織田信長の後継者の地位を固め、大坂城を築くと、姫路には秀吉の弟、秀長が入りました。

 天正十三(1585)年、羽柴秀長が大和郡山に移ってからは、やはり秀吉の一族にあたる木下家定が姫路城主に任じられました。家定は関ヶ原の合戦が起こるまで15年間、姫路城主の地位にありましたが、所領は2~3万石とみられ、城郭の大規模な修築には手を付けていなかったようです。

 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は大坂城に近い姫路に、娘婿である池田輝政に52万石の大封を与え、入城させます。豊臣家の天下の象徴であった大坂城に対抗するべく、家康は諸大名に大規模な城郭の造営を勧め、これに応じて輝政は姫路城を壮大堅固な要塞に大改装します。

 黒漆と黄金に彩られた大坂城とは対照的な、白一色に塗り込めた「白鷺城」の誕生です。

 見た目の美しさばかりでなく、堅固な構えも姫路城の特徴です。特に驚くべきは、あれほど広大な敷地を有する城郭であるにも関わらず、中枢部に入ると通路が狭くなり、侵入した敵兵の動きを孤立制限させるように工夫されていることです。

 徳川幕府は姫路城を西国守護の最重要拠点とし、豊臣家滅亡までは池田氏に一族合わせ100万石近い所領を与えてその任を務めさせました。

 豊臣家滅亡後の元和三(1617)年、池田氏の後に姫路城主の任に着いた本多忠刻の妻は、徳川家康の孫娘で、かつては豊臣秀頼に嫁いでいた千姫でした。忠刻は西の丸を現在のような状態に修築し、千姫を住まわせたと言われています。

 その後も城主は本多氏の他、榊原氏、松平氏と徳川譜代の家が歴任、明治維新を迎えることとなります。

 維新後、他の城郭のような破却も免れ、太平洋戦争での空襲からも奇跡的に逃れ、戦後に国宝指定、さらに平成五(1993)年にはユネスコが世界遺産として認定し、現在に至ります。

西の丸全景
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 これは姫路城天守閣から撮影した、西の丸の全景です。左下に小さく自動車が写っているあたりは三の丸で、当時は蔵や事務方の職場である藩庁、藩主の御殿が立ち並んでいました。その右隣の大きな建物が、城の中枢への第1関門、菱の門です。もし、敵が菱の門から侵入してきた場合、西の丸をはじめ、四方から敵を銃撃できる構造になっています。またこの写真からは分かりませんが、西の丸から菱の門背後には攻撃用の出撃路もあります。  西の丸は全体が塀又は櫓で固められています。特に写真右側の部分は石垣に沿って外側の敵を監視、攻撃するための櫓が連続して立ち並び、堅固な構えを誇っています。右側手前の櫓は化粧櫓と呼ばれ、内部は畳敷きで採光用の窓もあり、書院(住居)としての役割も果たせる珍しい構造になっています。


↑兵庫県の温泉宿↑

総塗込の天守閣
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 姫路城は天守から城内の各櫓の大半が軒下まで全て白い漆喰で塗り込められているのが特徴です。防火性に優れているのは確かだけれども、長期的には雨に脆いのでメンテナンスが大変、維持費がかかるので、経済的な実力のある大藩でないと、このような城は築けないのです。


↑近畿地方の宿↑

連立天守閣
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 二の丸乾曲輪から天守群を見上げたところです。天守に入るには、更にこの廻りを半周しなければ行けません。つまり、それだけ城内からの銃口に晒されるわけです。手前に見える屋根は本丸第三櫓。


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