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山中城

所在地:静岡県三島市山中新田。

戦国時代の城跡としては屈指の保存状態で遺構が遺されています。

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有名な障子堀。堀底を区画して攻めこんでくる敵の動きを制限させるわけです。こうした手間のかかる堀は後北条氏ならではの技法で、他の地方の城郭では見られません。これは西郭の堀。これを見るためだけに行ってみる価値はありますよ。

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 山中城は西方からの脅威に対応して、戦国大名後北条氏が箱根に築いた城郭です。関東戦国時代の覇者、後北条氏の持つ築城技術の粋を注ぎ込んだ要塞と言って良いでしょう。

 もともと、箱根を国境として、東の関東平野に覇を唱えてきた後北条氏に対し、西の駿河には今川~武田~徳川と強大な勢力が存在しており、北条氏側としては、これに対応した城郭の築城は当然のことでした。築城当初は城と言うよりは番所、関所と呼ぶべき、規模の小さなものであったようですが、永禄11(1568)年に武田信玄との同盟が解消となった頃から、城郭としての整備が開始されたと考えられます。現在、残されている壮大な遺構は天正15(1587)年に豊臣家との緊張関係が高まってきた頃に更に大改修されたものです。

 その構造は北東方向に伸びる東海道をそのまま城郭内に取りこむ斬新なもので、これを三の郭とし、城下町と侍屋敷を形成。これを見下ろす西側に、城主の居館や物見矢倉を築いた二の郭、本郭が築かれ、更にこれらを取り囲むように西郭、北郭を配し、三の丸大手手前には東海道に沿って、これを見下ろすように岱崎出城が伸びるという大要塞でした。

 各郭を巡る堀は、畝堀、障子堀と呼ばれるもので、堀底を区画し、侵入した敵の進退の自由を奪うべく、工夫が凝らされていました。城跡は石垣や建築物こそ残らないものの、中世後半、戦国時代の「戦うための城」の遺構が良好に残されています。

 しかし、北条家自慢の山中城も大量の鉄砲を装備し、質、量ともに圧倒的な豊臣軍の前に、天正18(1590)年3月29日、1日と持ちこたえること敵わずに落城してしまいました。同様に北条氏の最新技術を導入して築城された八王子城も1日で攻め落とされ、共にその役目を終えて廃城となったことは、戦国時代の終焉を迎える象徴的な出来事とも言えるかもしれません。

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二の郭の上段から西側の郭に伸びる橋(復元)を撮影。橋の先の郭奥には貯め池があり、篭城時の飲料水確保のための郭であったと考えられます。


↑静岡県の温泉宿↑

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「北条丸」と呼ばれる二の郭の門跡で、見ての通り、とても狭いです。左側の塁上から、通行する者を常に監視、攻撃できる構造に仕上げられています。


↑箱根の宿↑

山中城概略図
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 城の三の丸内に東海道を通してあり、南から西方よりの攻撃を食い止めるためにのみ築かれたと言えるほど極端な構造です。三の丸は集落、城下町にあたり、これに向かう東海道を岱崎出城が見下ろして監視しています。更に三の丸を本丸が直接監視しています。本丸と二の丸は内部で更に区画されており、門は二階建ての櫓門でした。城内の通路はいずれも狭く、兵の進退の難しい構造ですが、豊臣方は五万余の大軍勢で四方八方から道も防御施設も構わず押し包むように攻め込んだので、苦心して築かれた防御施設は小細工程度の役にしか立たなかったと思われます。

 関所としては立派過ぎる城郭ですが、大軍を一手に引き受けるには規模が小さ過ぎたと言えるかもしれません。


コメント

山中城概略図はまったくの出鱈目だ。

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