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鉢形城

埼玉県寄居町。秩父地方を代表する壮大な戦国城郭跡で、平成十六年に資料館も完成しました。

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荒川にかかる正喜橋から見た鉢形城跡。もちろん、当時は橋などなく、荒川の対岸から渡って城に入るのは極めて困難でした。

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 室町時代、関東管領を務めた山内上杉氏の家老、長尾家の居城としてこの城は始まったようです。文明八(1476)年、鉢形を拠点に長尾景春が主君上杉氏に反旗を翻し、討伐を受けた後は山内上杉氏の武蔵(現在の埼玉県)国支配の拠点となります。

 その後、関東では山内、扇谷の両上杉氏が対立、扇谷側が川越城を拠点としていたのに対し、山内側は鉢形城を拠点に互いに激しく争いました。

 その隙をついて勢力を伸ばしたのが、小田原城を本拠とする北条氏です。天文十五(1546)年、川越の夜戦で両上杉連合軍は北条氏康に大敗、関東を追われてしまいます。それまで上杉氏に従っていた関東の諸将は次々と北条氏の傘下に入ります。

 こうした中、鉢形城周辺(現在の埼玉県長瀞町、寄居町)を領していた藤田康邦は北条氏康の三男、氏邦を養子として迎え入れることで、北条氏に降伏する事になります。氏邦は当初、藤田氏の居城、天神山城に入っていたようです。

 しかし、北に越後の長尾(後の上杉)氏、西には甲斐の武田氏の脅威に晒されている中では、天神山城は手狭だったのでしょう。氏邦は永禄年間には鉢形を本拠に定め、城郭の整備を開始、更に周辺の砦や支城も含めた、広大な防衛網を築き始めます。

 天正十(1582)年、武田家が滅亡し、織田信長が本能寺で横死した事を機会に、氏邦は北方の上野国(現在の群馬県)への進出を開始しました。これにより、鉢形城は北条氏の北関東支配の最重要拠点として機能する事になります。

 しかし、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐によってその配下の前田利家、上杉景勝らの包囲攻撃を受け、一ヶ月余りの抵抗の後、氏邦は降伏して開城、前田利家の斡旋によって命を許され、金沢で晩年を過ごし、慶長二(1597)年、52才で死去しました。

 関東の旧北条領は徳川家康に与えられますが、家康はほどなくして、鉢形城を廃城にしたようです。

 鉢形城は北方の荒川と南側に流れるその支流、深沢川に囲まれた一帯を城の中心部とし、深沢川に沿うように南西方向に城域を広げてあります。圧巻は荒川から望む断崖絶壁で、まさに自然の要塞の偉容を誇っています。

 一方で土塁、堀など、人工の防御施設の規模も壮大で、現在も発掘整備工事が続けられています。平成16年に第一期整備工事が終了し、外曲輪跡には鉢形城歴史館も完成しました。




鉢形城の縄張り(概略図)
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 絵心がないので図で我慢してください。櫓などの配置は推定です。

 城主の居館などのある本丸を中心とした中枢部は北は荒川、東から南にかけては深沢川が自然の堀となっています。本丸から荒川河川敷までの絶壁の高さは約25mもあり、深沢川も深さ7~8mの谷のような地形をなしており、無理に侵入する事は不可能です。そのため、唯一地続きの地形をなしている西側に堀や土塁を築く事によって防衛施設とし、大手門を開いています。この付近の構造は複雑で屈曲が多く、門を通るにあたっては櫓や土塁の防衛施設に側背を向けなければならないように工夫されています。

 深沢川の南側は外曲輪と言われ、主な家臣団の邸地があてがわれ、城下町は搦手から東側に向かって広がっていたようです。一度足を運ばれると、その壮大な遺構に度肝を抜かれると思います。

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本丸土塁。この上から眺める荒川の急流は圧巻です。撮影した場所は城主の御殿があったと伝えられ、御殿曲輪、御殿下曲輪と呼ばれています。現在は県農林総合研究センター、森林研究所となっています。

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二の丸と三の丸を隔てた土塁と堀です。こちらは発掘途中の整備前の写真です。中央を通る堀の左が三の丸、右が二の丸です。三の丸の方が土地が高いですが、これは二の丸の土塁が後世に破壊されているためです。
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こちらはほぼ同じ場所を整備後に撮影したものです。三の丸の土塁の高さは堀底から約5mあります。右側の木の茂っているあたりが稲荷神社で、馬出しのある虎口(門)がありました。

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三の丸から二の丸への通用口にあたる馬出し跡(概略図のA付近)。 門の前面に堀と土塁で囲まれた敷地を造成し、守りを固めてあります。上の写真は馬出し内部で、守備兵が駆け上れる石段があります。当時は石段の上を塀が巡っていたのでしょう。河原の丸い石をそのまま使ったようです。
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こちらは馬出しを三の丸から見た外観で、周囲を空堀が巡り、荒川への断崖に向かって落ちこんでいるのが分かります。
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三の丸の土塁を城内から見たところ(概略図B付近)。関東では珍しい石垣が積まれています。ただし、東海以西の同時期の城郭で見られるものとは石の大きさが小さく、石垣の高さも低く、技術の違いが明らかです。この上に登ると、空堀を隔てて城外~神社(下に写真あり) になっている虎口跡を見下ろすことが出来ます。

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三の丸内にある、この曲輪は別名、秩父曲輪とも呼ばれています。文字通り、この付近の防備を任されていた秩父氏の館があったとの伝承が残り、実際、庭園や建物の遺構が発掘されました。その入り口の門が復元されています。(概略図C付近)
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上の写真の門を出た右手に表れた虎口遺構。写真右下にわずかに見える石段は上の門の入り口部分です。三段に積まれた石垣の奥の土盛は櫓台の跡で、左手にあった大手門を見下ろし、更に奥の虎口をも視野に入れた重要な防衛施設です。 写真下に敷かれた石の列はかつて土塁があったことが発掘で判明。つまり、写真奥から手前に侵入してきた敵はこの先の進路と視界を遮られた上、右上の土塁と奥の櫓から十字砲火を浴びてしまうというからくりです。
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上の虎口を出たところにある馬出しは現在、神社になっています。社の左に低い土塁が残っていますね。その向こうにはもちろん、堀があります。実は社の右手に人が一人通れる程度の小さな道が城の外に向かっています(概略図D付近)。これは大手口に敵の攻撃を集中させ た末、城内から迂回奇襲させるための隠し門のようです。

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外曲輪に残る土塁(外略図E付近)で、今は土塁の上が遊歩道になっています。

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荒川と共に自然の堀を成す深沢川。昼間も樹木が鬱蒼としていて、結構ダークな雰囲気が残っています。


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