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2007年02月02日

山中城

所在地:静岡県三島市山中新田。

戦国時代の城跡としては屈指の保存状態で遺構が遺されています。

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有名な障子堀。堀底を区画して攻めこんでくる敵の動きを制限させるわけです。こうした手間のかかる堀は後北条氏ならではの技法で、他の地方の城郭では見られません。これは西郭の堀。これを見るためだけに行ってみる価値はありますよ。

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 山中城は西方からの脅威に対応して、戦国大名後北条氏が箱根に築いた城郭です。関東戦国時代の覇者、後北条氏の持つ築城技術の粋を注ぎ込んだ要塞と言って良いでしょう。

 もともと、箱根を国境として、東の関東平野に覇を唱えてきた後北条氏に対し、西の駿河には今川~武田~徳川と強大な勢力が存在しており、北条氏側としては、これに対応した城郭の築城は当然のことでした。築城当初は城と言うよりは番所、関所と呼ぶべき、規模の小さなものであったようですが、永禄11(1568)年に武田信玄との同盟が解消となった頃から、城郭としての整備が開始されたと考えられます。現在、残されている壮大な遺構は天正15(1587)年に豊臣家との緊張関係が高まってきた頃に更に大改修されたものです。

 その構造は北東方向に伸びる東海道をそのまま城郭内に取りこむ斬新なもので、これを三の郭とし、城下町と侍屋敷を形成。これを見下ろす西側に、城主の居館や物見矢倉を築いた二の郭、本郭が築かれ、更にこれらを取り囲むように西郭、北郭を配し、三の丸大手手前には東海道に沿って、これを見下ろすように岱崎出城が伸びるという大要塞でした。

 各郭を巡る堀は、畝堀、障子堀と呼ばれるもので、堀底を区画し、侵入した敵の進退の自由を奪うべく、工夫が凝らされていました。城跡は石垣や建築物こそ残らないものの、中世後半、戦国時代の「戦うための城」の遺構が良好に残されています。

 しかし、北条家自慢の山中城も大量の鉄砲を装備し、質、量ともに圧倒的な豊臣軍の前に、天正18(1590)年3月29日、1日と持ちこたえること敵わずに落城してしまいました。同様に北条氏の最新技術を導入して築城された八王子城も1日で攻め落とされ、共にその役目を終えて廃城となったことは、戦国時代の終焉を迎える象徴的な出来事とも言えるかもしれません。

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二の郭の上段から西側の郭に伸びる橋(復元)を撮影。橋の先の郭奥には貯め池があり、篭城時の飲料水確保のための郭であったと考えられます。


↑静岡県の温泉宿↑

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「北条丸」と呼ばれる二の郭の門跡で、見ての通り、とても狭いです。左側の塁上から、通行する者を常に監視、攻撃できる構造に仕上げられています。


↑箱根の宿↑

山中城概略図
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 城の三の丸内に東海道を通してあり、南から西方よりの攻撃を食い止めるためにのみ築かれたと言えるほど極端な構造です。三の丸は集落、城下町にあたり、これに向かう東海道を岱崎出城が見下ろして監視しています。更に三の丸を本丸が直接監視しています。本丸と二の丸は内部で更に区画されており、門は二階建ての櫓門でした。城内の通路はいずれも狭く、兵の進退の難しい構造ですが、豊臣方は五万余の大軍勢で四方八方から道も防御施設も構わず押し包むように攻め込んだので、苦心して築かれた防御施設は小細工程度の役にしか立たなかったと思われます。

 関所としては立派過ぎる城郭ですが、大軍を一手に引き受けるには規模が小さ過ぎたと言えるかもしれません。

水口城(岡山古城)

滋賀県甲賀郡水口町。甲賀支配のため、豊臣秀吉によって築かれた山城。

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西から見た古城山の遠望。周辺を見下ろす絶好の立地で、いかにも城があったという雰囲気です。 南北はこのようなお椀をかぶせたような形に見えますが、東西方向には長い尾根が伸びています。

 近江国(滋賀県)甲賀の水口には二つの城跡があります。一つは豊臣秀吉が家臣の中村一氏に築かせた岡山古城と呼ばれる水口城、もう一つが徳川家光の代に幕府が将軍の宿所として築かせた水口城です。ここで取り上げるのは前者です。

 本能寺の変から3年後にあたる天正十三(1585)年、前年には徳川家康との小牧長久手の戦いを和議で終結させた秀吉は、東海道沿いの宿場町である甲賀の支配強化のため、中村一氏に築城を命じました。完成した水口岡山城には築城した一氏以降、増田長盛、長束正家といった秀吉側近が城主に任じられました。その顔ぶれからも豊臣政権がこの城を重視していたことが窺えます。

 慶長五(1600)年の関が原の戦いに際し、城主の長束正家は西軍首脳の一人として参加しますが、関が原の決戦に敗れて水口に逃げ帰ります。しかし、東軍池田長吉らの猛烈な追撃を受け、抗戦を断念、城を出て自刃しました。その後、城は廃城となります。

 石垣は後の新水口城築城の際に取り払われ、再利用されたようです。恐らく、門、櫓などの建造物も関が原の戦い後、ほどなく解体転用されたと思われますが、仔細は伝わっていません。合戦後、東軍に通じた甲賀の地侍に城を占拠されたとの伝承もあるので、あるいはその際に火災に見舞われた可能性もあります。

 わずか15年しかその役割を果たさなかった城ですが、山中にはわずかな石垣と広大な削平地が残り、壮大な城郭があった事を偲ぶことが出来ます。

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登山口にある城跡の存在を示す石碑。 山城ですが、登るのにさほど、苦労はしません。


↑滋賀県水口城の不動産物件↑

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上の写真は大手の虎口…全然わかんないか。当時は石垣と石段で出来ていて、登って左に曲がって右に登る構造になっていたと思われます。 で、下は同じ写真に私の妄想を加えたもの。赤やピンクで縁取ったのは石垣と石段、ブルーと緑で縁取ったのは塀、あるいは物見櫓。門Bはかなり大きいので、櫓門が建っていたでしょう。これを抜けると三の丸と思われる広場に出ます。


↑近畿地方の格安宿↑

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山頂本丸跡にあった案内板。尾根伝いに大まかに五つの郭があったことが分かります。左(西)に向かって大手口があり、右に搦手があったと思われます。左から2番目の一番広い郭が本丸跡です。

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わずかに残された石垣。この近くは崖なので、撤去を見合わせたのでしょう。墓石もあったので、事故でもあったのかもしれません。こうして近くで見られるのは本丸北側の斜面二箇所です。
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東方向を望んで。公園になっていますが、急な斜面に驚かされます。当時は石垣が積まれていたはずなので、山下から見上げた城山の姿は壮観だったと思われます。

水口城

滋賀県甲賀郡水口町。将軍家光の宿泊施設として築かれた城。櫓を模した資料館があります。

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出丸内、当時の番所跡に櫓風の建築を模して仕上げられた資料館です。

 「甲賀」と聞くと忍者を思い出す方が多いと思います。戦国~江戸期にかけて、この地は京都へ至る宿場町として栄えた交通上の要地でした。豊臣秀吉は周辺を一望できる岡山に城を築かせ、この地を支配しましたが、関が原の戦いで水口岡山城主、長束正家は滅亡し、城も廃城となりました。

 その後、江戸に幕府を開いた徳川家康も京都への道筋にあるこの地を重視し、幕府の直轄地として支配しました。そして、三代将軍家光の代に将軍の宿所として新たに築かれたのが今日、平城として遺構が残る水口城です。築城には文人大名として名高い小堀政一(遠州)があてられました。

 天和二(1682)年には外様大名の加藤明友(賎ヶ岳七本槍の一人で伊予松山、会津若松城主を歴任した嘉明の孫)が2万石で水口城主を任命されました。本丸にあった豪華な御殿は維持が困難で程なく撤去されましたが、本丸を巡る堀、石垣や櫓は残されました。藩主は本丸の北、二の丸に政庁と御殿を建て、藩政を執ったそうです。
 
 明友の子、昭英の代に一時、下野壬生に移封されますが、もともとの出身が徳川氏と同じ三河であったためか、外様から準譜代に格上げされ、所領も2万5千石に加増、次の嘉矩の代で水口に戻って来ます。以降、転封も所領の増減もないまま、明治を迎える事になります。

 明治維新後、城内の建造物はことごとく撤去され、石垣の多くも取り払われ、鉄道の線路に使われてしまいましたが、現在は出丸が整備され、資料館が建てられています。

 城地は極めてシンプルで、正方形の本丸と、その東に突き出た出丸を水堀がぐるりと取り囲んでいるだけです。本丸の四隅には櫓が建っていたそうです。門は二ヶ所とも北に向かって開かれています。石垣は旧乾櫓のあった場所にのみ、当時の石積みが残されています。石積み技術がほぼ完成された時代の石垣として、貴重な遺構だと思います。

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出丸内、当時の番所跡に櫓風の建築を模して仕上げられた資料館です。

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これが本丸乾櫓跡、他は土の斜面がのこるのみ。ちなみに本丸内は現在、運動場です。

水口城の縄張図
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 合戦よりも、将軍宿所としての格式を優先させた構造です。本丸には豪華な御殿が立っていました。二の丸には厩や番所、藩主の御殿が建ち並んでいたそうですが、堀や土塁はなく、水路や塀で区画されていたのではないかと思われます。

 櫓を模した資料館が建つのは出丸の南東角で、かつての石垣が残るのは北西にわずかに突き出た乾櫓跡です。

松本城

長野県松本市。黒塗りの国宝天守閣が美しい平城。

夕日を浴びる松本城
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 信濃の国(現在の長野県)は山が多く、その合間に開かれた盆地、平地に人が住み、経済的中心となっていきました。なかでも、松本平は河川が多く流れる肥沃な土地で、位置的にも国の中心にあたり、室町時代、守護の小笠原氏は、この松本平を望む山城、林城を居城としていました。

 この頃の松本城の位置には豪族坂西氏の居城である深志城がありました。ただし、その規模は小さく、現在の本丸、あるいは二の丸を含んだ地域内に館を建て、堀を廻らせた程度のものであったと思われます。

 ちなみに深志は「深瀬」の読みが次第に変わっていったものと言われていて、当時、周辺が泥湿地帯であったことを窺わせます。

 深志城が生まれ変わったのは戦国時代の天文十九(1550)年、武田信玄が小笠原氏を信濃から追い払ってからです。信玄は占領した松本平を守る以上に、ここを拠点に更なる勢力拡大を目論んでいました。そのため、それまで小笠原氏が居城としていた難攻不落の山城である林城を使わず、大量の将兵、物資を集結できる拠点として、平地に新城を築くことにしたのです。そこで信玄が目をつけたのが、深志城でした。

 信玄によって深志城将に任じられた重臣、馬場信房は城に大規模な修築を加えました。中心の本丸をコの字形の二の丸で囲み、更にそれを広大な三の丸でぐるりと囲むという形で、当時としては珍しい巨大な平城、深志城が完成しました。この構造は後の松本城にも基本的に受け継がれることになります。

 その後、信玄は深志城を拠点として信濃を平定し、更に関東、東海地方へと進出していきましたが、織田信長との争いのさなか、元亀四(1572)年に死去、深志城主の馬場信房は天正三(1575)年の長篠の戦で討ち死にし、武田氏自体も天正十年の織田、徳川連合軍の侵攻で滅亡しました。しかし、その年の内に本能寺の変が起こり、深志城主は武田~織田~上杉~徳川とめまぐるしく変わります。結局、徳川家康の勢力を背景に旧信濃国主の流れを引く小笠原貞慶が入城したことで、一旦は落ち着きます。この時に小笠原氏にとっては侵略者であった武田氏によって拡大、整備された深志城の名を嫌ったのか、「松本城」と名を改めたようです。

 松本城が現在のような石垣と天守閣をはじめとする建築物で形作られたのは、天正十九(1591)年、関東の北条氏が滅亡し、徳川家康と共に小笠原氏も関東に移って後、豊臣秀吉の家臣、石川数正が松本城主10万石を与えられて入城してからです。

 数正は秀吉の天下統一で新たな時代がやってきたことを領民にも知らしめるため、それまで、信濃国内では見られなかった壮大な城郭を松本に築くことにしました。本丸を石垣で固め、外観五階建ての巨大な天守閣をはじめとする建造物はこのような意図の下に築かれたのです。

 しかし、元来、湿地帯で地盤のゆるい地域であるため、石垣の構築や天守閣の建造は難航を極めたといわれています。このため、石垣の高さは最大でも5~6mと低く抑えられ、勾配もゆるいです。

 数正は築城半ばの文禄元(1592)年に死去、子の康長によって工事は引き継がれました。こうして完成した城は、本丸全域と二の丸太鼓門、三の丸大手門を石垣で固め、要所に櫓を築き、三の丸の外には城下町を南北に開発しました。現在の長野県内最大の都市となる基盤はこのときに築かれたわけです。

 江戸時代に入ってからも城主の交代はめまぐるしく、石川~小笠原~戸田~松平~堀田~水野~幕府天領~戸田氏と経て、明治維新を迎えました。その間、徳川本家の一族でもある松平直政時代(1636~38)に、天守閣に加え、辰巳付櫓と月見櫓が増設されました。

 明治維新後、一度は破却の話もありましたが、地元有志の尽力が実り、天守閣の保存が決定、国宝に指定され現在に至ります。

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天守閣を南東方向から見たもの。右側にある赤い廻り縁の見える建物が月見櫓。江戸時代に追加された平和な時代の象徴です。
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天守の北西面。こちらからみると無骨で力強く見えます。見る角度によって印象がまるで変わるのが、松本城天守の魅力です。
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上の写真の角度から天守最上階をズームアップ。右側の鯱が妙な形をしているように見えますが、実は鳶の夫婦(?)が留まっているのです。
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天守の北東面。大天守と小天守の間に入り口があることが判ります。'93年頃の写真ですが、この日は行列が出来てました…
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北東方向間近から大小天守を見上げてみました。こうして見ると黒い下見板に多数の銃眼が空けられているのがわかり、戦闘を意識した建築である事を認識させられます。
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更に大天守に近づいてみて撮影してみました。幾重にも重なる軒が美しくて、かつド迫力。
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北側からズラリと連なる天守群を撮影してみました。整然と並んだ図面のような構図で…自分でも、「こんな構図もあるんだな」と、気がついたのは6回目くらいに城を訪れた時でした。
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最も美しい構図である天守群南西面の写真。中央天守の左に乾小天守、右側に辰巳付け櫓と月見櫓が接続しています。白い漆喰と黒漆を基調とし、月見櫓の赤い高欄が華麗な印象を与える素晴らしい建築です。創建当初は月見櫓がなかったそうなので、より武骨な印象が強かったでしょうね。石垣に沿って多数の石落しが設置されているのは、石垣の低さゆえかもしれません。
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内堀に天守が写っている姿を合わせて撮影してみました。
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二の丸御殿址より天守閣南面を見たところ。こうして遠目に見ると、天守閣上部が頭でっかちに見えます。これは築城当初、四方に展望の利く望楼のような形状であったものが、寒さ対策のために壁で囲うように改修した為と言われています。建築当初は犬山城などに近い外観であったのかもしれません。
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本丸から天守閣南面を見たところ。小天守や付け櫓を従えた力強い姿です。


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天守3階(?)の内部です。納戸…倉庫のような役割を果たしていたように思います。
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天守閣最上階天井部分の木組みです。大小の梁が複雑に組まれています。こういう部分が露出しているのも珍しいですね。

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松本城縄張り図
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 ここには収まりきれませんでしたが、城下町は城の東側を南北に開かれていました。図中の黄色部分が町や武家屋敷にあたります。緑の部分は深田か湿地帯で、敵の攻撃を受けた際、北から東にかけて軍勢の進退に苦労するよう、あえて放置されたようです。

 本丸内にはDの天守群の外、御殿が建っていました。二の丸にはAの位置に藩庁にあたる二の丸御殿、Bの位置に築城開始時に石川数正が居住し指揮を取った古山寺御殿があったほか、米倉などが建ち並んでいたようです。三の丸には上級家臣の武家屋敷がありました。

 三の丸から南方に向かって、石垣で固めた枡形をなしている大手門が開かれていますが、残る四ヶ所の門は前面に半円形の堀と土塁が築かれた丸馬出しになっています。これは甲斐武田氏が好んで使用した防御施設で、この城が武田氏時代の様式を色濃く留めていたことを示しています。大手門の他、二の丸太鼓門と本丸黒門が石垣積みの枡形構造で近世の様式で築かれています。

 本丸全域と二の丸太鼓櫓周辺、三の丸大手門周辺が石垣積みで残りは土塁と塀で囲まれていました。赤印は櫓ですが、本丸の東面は廊下状の多門櫓で防備されています。三の丸に多くの櫓があるように見えますが、これらはどれも平屋作りで櫓と言うよりはむしろ、番所のような建物です。二の丸の櫓は二階建ての重層建築です。

 目に付くのは三の丸の広大さです。門も四方に向かって開かれており、防衛的見地よりも軍勢の駐屯地、出撃用の拠点として築かれた、武田信玄築城時のこの城の特性が窺えます。

 珍しいのはCの位置に架けられた木橋で、普段は塀のように立てかけられており、緊急の場合に板を倒して橋とする構造になっており、足駄塀と呼ばれていました。残念ながら現存しておらず、現在Cの位置には立派な橋が架かっています。

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城の南側外堀を兼ねた女鳥羽川の現況。それなりに趣があります。
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旧城下町にある牛つなぎ石。かつて、武田信玄が北條、今川両氏から塩留にあった際、越後の上杉謙信が信濃に塩を送り、その荷を積んだ牛がこの石に繋がれたという伝承が残っているそうです。

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松本城の城門

松本城の縄張りは武田氏によって築かれた深志城を踏襲していたように思われます。これは三の丸から四方に向けて開かれた門のうち、大手門を除く四ヶ所が武田氏の築いた城郭で見られる丸馬出しである事から推測できます。

更に城の構造について踏み込んで言うなら、複雑な地形や構造を施した難攻不落の城郭というよりは、広大な平地を取り込んだ大城郭として、言い換えれば、軍勢の駐屯地として築かれた「攻めの城」という意図のもとに築かれた城郭であるように思われます。

しかし、戦国の世が終息すると、松本城はそうした役割を失い、松本平野の政治、軍事の拠点を担うようになります。そこで、新たに松本城主として入った大名各氏は松本城を独立した要害として改修を加えます。そんな中で築かれたのが本丸の黒門と二の丸の太鼓門、そして三の丸の大手門です。

これらの内、大手門を除く二門が現在、復元されています。そこに施された防衛上の工夫について、簡単に触れておきましょう。

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まずは太鼓門周辺を図示してみました。二階建の櫓門である太鼓門の手前に高麗門を置き、両サイドに石垣と塀で囲んだ空間を突き出す事によって、枡形を構築し、敵の侵入を防衛する工夫が取られています。また、この図には収まっていませんが、門に向かって左側には二階建の辰巳櫓があり、そこからの支援も得られるようになっています。 高麗門の手前で橋の幅が狭くなっているのは、侵入する敵の勢いを削ぐためで、逆に城内から出撃するのに便利な構造でもあり、城郭では良く見られる手法です。また、高麗門を抜けると、石垣に突き当たるので、一度右に屈曲させて太鼓門に向かわせると、こうして侵入した敵の進路、目線を動かす工夫が凝らされているのも、城門の特徴です。高麗門を突破されても、一旦立ち往生を余儀なくされた上、三方から攻撃を受けてしまうわけです。
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三の丸から見た太鼓門の外観です。手前が高麗門で右奥に太鼓門が控え、両脇に塀に囲まれたせり出した空間があり、侵入する敵を威圧する配慮が窺えます。時を告げたり、様々な合図に使われる太鼓は、門の上の櫓内ではなく、右手の塀の裏側に鐘楼を建て、そこに据えられていました。 高麗門の向こうに大きな石が見えるかと思いますが、これは城内の石垣中、最大とされる玄蕃石で高さ約4m、周囲最大約7m。あまりの石の大きさに不平をもらした人夫を、築城を指揮していた石川康長が見せしめの為に斬り捨て、工事を督励したと言われています。
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枡形内から見た玄蕃石。城主の威光を示すため、こうした大型の石は要所に効果的に配置されました。
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枡形内から見た太鼓門です。上から見下ろされた感じで、圧迫感があります。
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太鼓門を抜けて、二の丸側から見た太鼓門です。左側の石垣上に太鼓を据えた鐘楼があったといわれています。

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天守のある本丸へ通じる黒門周辺を図示してみました。枡形の大きさなど、若干太鼓門より大きめに築かれています。 基本的な構造は太鼓門と同じですが、櫓門が"┓"状に屈曲している事と、門に向かって左側に櫓などはない代わりに大きく石垣がせり出しており、そこから門を援護出来るように工夫が施されています。
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黒門の外観です。本丸への通用門であるという格式の高さと言いますか、太鼓門と比べると整然とした印象を受けます。
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枡形内から見た黒門です。二階櫓部分が手前に突き出ており、より堅固に築かれています。

姫路城

 兵庫県姫路市。世界遺産指定を受けた国宝天守閣は一度は見ておきたい。かほどに見事な城郭遺構はないでしょう。

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 世界遺産、国宝として名高い姫路城ですが、現在のような規模になったのは慶長五(1600)年、関ヶ原の合戦後、池田輝政が入城して大改装したことによります。

 それ以前は現在、天守閣がそびえ立つ姫山と西の丸にあたる鷺山が、それぞれ独立していて、砦や寺社が存在していたようです。

 南北朝から室町時代にかけて、播磨国(現在の兵庫県)の守護は赤松氏でしたが、戦国時代に入ると守護の勢力は弱まり、別所氏、小寺氏といった勢力が台頭し、互いにしのぎを削っていました。

 この頃の姫路城は小寺氏の領国支配における、有力な支城として機能していました。城主は小寺氏の家老の黒田氏、主君小寺姓を名乗ることが許されたほど信頼された関係にあったようです。

 黒田家は孝高の代、尾張から中央を制圧していた織田信長に接近し、中国地方への派兵を勧めました。これに応じてやって来たのが羽柴秀吉です。孝高は秀吉を主君と仰ぎ、姫路城を譲りました。このときに、現在の複雑な城内の基礎が整備されたと思われます。

 その後、姫路城は織田信長の命によって、中国地方平定軍の大将に任じられた羽柴秀吉の居城となりました。この頃の姫路城には三階建てくらい、現在の国宝、犬山城クラスの天守が存在していたと思われます。

 本能寺の変を経て秀吉が織田信長の後継者の地位を固め、大坂城を築くと、姫路には秀吉の弟、秀長が入りました。

 天正十三(1585)年、羽柴秀長が大和郡山に移ってからは、やはり秀吉の一族にあたる木下家定が姫路城主に任じられました。家定は関ヶ原の合戦が起こるまで15年間、姫路城主の地位にありましたが、所領は2~3万石とみられ、城郭の大規模な修築には手を付けていなかったようです。

 関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は大坂城に近い姫路に、娘婿である池田輝政に52万石の大封を与え、入城させます。豊臣家の天下の象徴であった大坂城に対抗するべく、家康は諸大名に大規模な城郭の造営を勧め、これに応じて輝政は姫路城を壮大堅固な要塞に大改装します。

 黒漆と黄金に彩られた大坂城とは対照的な、白一色に塗り込めた「白鷺城」の誕生です。

 見た目の美しさばかりでなく、堅固な構えも姫路城の特徴です。特に驚くべきは、あれほど広大な敷地を有する城郭であるにも関わらず、中枢部に入ると通路が狭くなり、侵入した敵兵の動きを孤立制限させるように工夫されていることです。

 徳川幕府は姫路城を西国守護の最重要拠点とし、豊臣家滅亡までは池田氏に一族合わせ100万石近い所領を与えてその任を務めさせました。

 豊臣家滅亡後の元和三(1617)年、池田氏の後に姫路城主の任に着いた本多忠刻の妻は、徳川家康の孫娘で、かつては豊臣秀頼に嫁いでいた千姫でした。忠刻は西の丸を現在のような状態に修築し、千姫を住まわせたと言われています。

 その後も城主は本多氏の他、榊原氏、松平氏と徳川譜代の家が歴任、明治維新を迎えることとなります。

 維新後、他の城郭のような破却も免れ、太平洋戦争での空襲からも奇跡的に逃れ、戦後に国宝指定、さらに平成五(1993)年にはユネスコが世界遺産として認定し、現在に至ります。

西の丸全景
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 これは姫路城天守閣から撮影した、西の丸の全景です。左下に小さく自動車が写っているあたりは三の丸で、当時は蔵や事務方の職場である藩庁、藩主の御殿が立ち並んでいました。その右隣の大きな建物が、城の中枢への第1関門、菱の門です。もし、敵が菱の門から侵入してきた場合、西の丸をはじめ、四方から敵を銃撃できる構造になっています。またこの写真からは分かりませんが、西の丸から菱の門背後には攻撃用の出撃路もあります。  西の丸は全体が塀又は櫓で固められています。特に写真右側の部分は石垣に沿って外側の敵を監視、攻撃するための櫓が連続して立ち並び、堅固な構えを誇っています。右側手前の櫓は化粧櫓と呼ばれ、内部は畳敷きで採光用の窓もあり、書院(住居)としての役割も果たせる珍しい構造になっています。


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総塗込の天守閣
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 姫路城は天守から城内の各櫓の大半が軒下まで全て白い漆喰で塗り込められているのが特徴です。防火性に優れているのは確かだけれども、長期的には雨に脆いのでメンテナンスが大変、維持費がかかるので、経済的な実力のある大藩でないと、このような城は築けないのです。


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連立天守閣
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 二の丸乾曲輪から天守群を見上げたところです。天守に入るには、更にこの廻りを半周しなければ行けません。つまり、それだけ城内からの銃口に晒されるわけです。手前に見える屋根は本丸第三櫓。

鉢形城

埼玉県寄居町。秩父地方を代表する壮大な戦国城郭跡で、平成十六年に資料館も完成しました。

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荒川にかかる正喜橋から見た鉢形城跡。もちろん、当時は橋などなく、荒川の対岸から渡って城に入るのは極めて困難でした。

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 室町時代、関東管領を務めた山内上杉氏の家老、長尾家の居城としてこの城は始まったようです。文明八(1476)年、鉢形を拠点に長尾景春が主君上杉氏に反旗を翻し、討伐を受けた後は山内上杉氏の武蔵(現在の埼玉県)国支配の拠点となります。

 その後、関東では山内、扇谷の両上杉氏が対立、扇谷側が川越城を拠点としていたのに対し、山内側は鉢形城を拠点に互いに激しく争いました。

 その隙をついて勢力を伸ばしたのが、小田原城を本拠とする北条氏です。天文十五(1546)年、川越の夜戦で両上杉連合軍は北条氏康に大敗、関東を追われてしまいます。それまで上杉氏に従っていた関東の諸将は次々と北条氏の傘下に入ります。

 こうした中、鉢形城周辺(現在の埼玉県長瀞町、寄居町)を領していた藤田康邦は北条氏康の三男、氏邦を養子として迎え入れることで、北条氏に降伏する事になります。氏邦は当初、藤田氏の居城、天神山城に入っていたようです。

 しかし、北に越後の長尾(後の上杉)氏、西には甲斐の武田氏の脅威に晒されている中では、天神山城は手狭だったのでしょう。氏邦は永禄年間には鉢形を本拠に定め、城郭の整備を開始、更に周辺の砦や支城も含めた、広大な防衛網を築き始めます。

 天正十(1582)年、武田家が滅亡し、織田信長が本能寺で横死した事を機会に、氏邦は北方の上野国(現在の群馬県)への進出を開始しました。これにより、鉢形城は北条氏の北関東支配の最重要拠点として機能する事になります。

 しかし、天正十八(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐によってその配下の前田利家、上杉景勝らの包囲攻撃を受け、一ヶ月余りの抵抗の後、氏邦は降伏して開城、前田利家の斡旋によって命を許され、金沢で晩年を過ごし、慶長二(1597)年、52才で死去しました。

 関東の旧北条領は徳川家康に与えられますが、家康はほどなくして、鉢形城を廃城にしたようです。

 鉢形城は北方の荒川と南側に流れるその支流、深沢川に囲まれた一帯を城の中心部とし、深沢川に沿うように南西方向に城域を広げてあります。圧巻は荒川から望む断崖絶壁で、まさに自然の要塞の偉容を誇っています。

 一方で土塁、堀など、人工の防御施設の規模も壮大で、現在も発掘整備工事が続けられています。平成16年に第一期整備工事が終了し、外曲輪跡には鉢形城歴史館も完成しました。




鉢形城の縄張り(概略図)
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 絵心がないので図で我慢してください。櫓などの配置は推定です。

 城主の居館などのある本丸を中心とした中枢部は北は荒川、東から南にかけては深沢川が自然の堀となっています。本丸から荒川河川敷までの絶壁の高さは約25mもあり、深沢川も深さ7~8mの谷のような地形をなしており、無理に侵入する事は不可能です。そのため、唯一地続きの地形をなしている西側に堀や土塁を築く事によって防衛施設とし、大手門を開いています。この付近の構造は複雑で屈曲が多く、門を通るにあたっては櫓や土塁の防衛施設に側背を向けなければならないように工夫されています。

 深沢川の南側は外曲輪と言われ、主な家臣団の邸地があてがわれ、城下町は搦手から東側に向かって広がっていたようです。一度足を運ばれると、その壮大な遺構に度肝を抜かれると思います。

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本丸土塁。この上から眺める荒川の急流は圧巻です。撮影した場所は城主の御殿があったと伝えられ、御殿曲輪、御殿下曲輪と呼ばれています。現在は県農林総合研究センター、森林研究所となっています。

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二の丸と三の丸を隔てた土塁と堀です。こちらは発掘途中の整備前の写真です。中央を通る堀の左が三の丸、右が二の丸です。三の丸の方が土地が高いですが、これは二の丸の土塁が後世に破壊されているためです。
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こちらはほぼ同じ場所を整備後に撮影したものです。三の丸の土塁の高さは堀底から約5mあります。右側の木の茂っているあたりが稲荷神社で、馬出しのある虎口(門)がありました。

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三の丸から二の丸への通用口にあたる馬出し跡(概略図のA付近)。 門の前面に堀と土塁で囲まれた敷地を造成し、守りを固めてあります。上の写真は馬出し内部で、守備兵が駆け上れる石段があります。当時は石段の上を塀が巡っていたのでしょう。河原の丸い石をそのまま使ったようです。
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こちらは馬出しを三の丸から見た外観で、周囲を空堀が巡り、荒川への断崖に向かって落ちこんでいるのが分かります。
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三の丸の土塁を城内から見たところ(概略図B付近)。関東では珍しい石垣が積まれています。ただし、東海以西の同時期の城郭で見られるものとは石の大きさが小さく、石垣の高さも低く、技術の違いが明らかです。この上に登ると、空堀を隔てて城外~神社(下に写真あり) になっている虎口跡を見下ろすことが出来ます。

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三の丸内にある、この曲輪は別名、秩父曲輪とも呼ばれています。文字通り、この付近の防備を任されていた秩父氏の館があったとの伝承が残り、実際、庭園や建物の遺構が発掘されました。その入り口の門が復元されています。(概略図C付近)
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上の写真の門を出た右手に表れた虎口遺構。写真右下にわずかに見える石段は上の門の入り口部分です。三段に積まれた石垣の奥の土盛は櫓台の跡で、左手にあった大手門を見下ろし、更に奥の虎口をも視野に入れた重要な防衛施設です。 写真下に敷かれた石の列はかつて土塁があったことが発掘で判明。つまり、写真奥から手前に侵入してきた敵はこの先の進路と視界を遮られた上、右上の土塁と奥の櫓から十字砲火を浴びてしまうというからくりです。
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上の虎口を出たところにある馬出しは現在、神社になっています。社の左に低い土塁が残っていますね。その向こうにはもちろん、堀があります。実は社の右手に人が一人通れる程度の小さな道が城の外に向かっています(概略図D付近)。これは大手口に敵の攻撃を集中させ た末、城内から迂回奇襲させるための隠し門のようです。

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外曲輪に残る土塁(外略図E付近)で、今は土塁の上が遊歩道になっています。

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荒川と共に自然の堀を成す深沢川。昼間も樹木が鬱蒼としていて、結構ダークな雰囲気が残っています。

日光東照宮

所在地:栃木県日光市。

徳川家康を神として奉った場所が今は世界遺産。

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今も関東の鎮護の役割を担っているのでしょうか…家康公の墓所です。


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 元和二(1616)年4月17日、徳川家康は死去しました。遺体は当初、駿河(静岡県)久能山に葬られましたが、翌年の一周忌に、ここ下野国日光に移されました。

 現在、我々が目にする豪華絢爛な社殿は、その17年後の寛永十一(1634)年の三代将軍、徳川家光による大工事によって完成したものです。

 表門を入ると上中下と名の付いた三棟の神庫が建ち並び、これにらに沿って折れ曲がる参道沿いには、佐賀藩鍋島家奉納の水盤舎(手を洗うところ)に、有名な「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿を彫ってある神厩舎と、それぞれ個性的な建築が建ち並んでいますが、見逃せないのが古い灯籠で、黒田、蜂須賀、藤堂ら歴戦の名将の名が刻まれていて、日本史、戦国時代のファンにはたまらない一角です。また、陽明門の手前、銅の鳥居の近くには、仙台藩主、伊達政宗奉納の鉄灯籠(錆びている)、薩摩藩主、島津家久奉納の銅の灯籠が並べられ、両家が別格扱いであることが判ります。

 こうして辿りついた本殿の入り口が有名な陽明門、柱が白の塗り込めであることが珍しいですが、更にこれでもかと施された彫り物は見飽きることがないことから、「日暮門」とも言われたそうです。また、陽明門につい、目を奪われてしまいがちですが、左右に広がる回廊の花鳥をあしらった彫り物も溜息ものです。

 陽明門をくぐると大きさは小振りですが、見事な唐門が本殿前にあります。この唐門から左右に伸びる塀が透塀で、当時の建築、装飾技術の全てが結集されているんだなぁ、と感じ入ると共に、「一体、幾らかかったんだ」という現実的、庶民的な思いもふと、頭をよぎってしまいますね。

 本殿は家康、豊臣秀吉に源頼朝を祀った本殿、諸大名が参拝する拝殿、更に両者の間には将軍、又は御三家のみが足を踏み入れることを許された石の間に区別されています。内装は狩野派が描いた襖絵、格子天井と贅を尽くした構えに圧倒されるばかり。

 本殿を巡る回廊の東側に眠り猫を彫った坂下門があり、ここを通って更に奥に進むと長い階段を上った先に徳川家康の墓所にたどり着きます。周囲を石段が巡った中央に銅製の宝経印塔が建ち、乱世の勝者が静かに眠っています。




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参道を昇っていくとまず目に入るのが、関ヶ原の戦いでも活躍した福岡藩主、黒田長政の奉納による巨大な石鳥居(日本一らしい)です。これをくぐった左手には五重塔があります。

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五重塔は重要文化財、赤が基調の美しい建築です。ここまでは無料で見られますが、陽明門をはじめ、本殿、奥の院は有料です。







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一番上は陽明門の全景。下2枚も多分(?)陽明門です。

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唐門の屋根の形状に注目が正面だけでなく、横に向かっても破風が向けられた複雑な構造になっています。その奥の本殿の屋根も、唐破風の後に切妻破風を二重に据えている。こんなに豪華な建築は他じゃちょっと見られません。
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眠り猫。もう少しズームアップして取れば良かった…

難波田城

埼玉県富士見市。私の自宅近くにある城跡です。古民家なども移築されていて、意外と和めます。

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本郭跡は宅地化しており、城が存在したことを示す石碑の建つスペースのみが残されています。

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 もともとは武蔵国内に古くから割拠していた武士の一流である難波田氏の館があったものが、戦国時代に城郭へと改修されたようです。近くに荒川を中心にその支流、柳瀬川や新河岸川が流れていたので、周辺は水が豊富であったようで、水堀に囲まれた平城として整備されていました。

 難波田氏は室町幕府初頭から、関東の有力武士として戦乱に関わっていますが、戦国時代に入ると関東管領上杉家の一流である扇谷上杉氏の家臣として、当主善銀は北条氏と各地で戦います。しかし、天文十五(1546)年の川越の夜戦で北条氏康の奇襲を受け、主君上杉朝興とともに難波田善銀も討ち死に、難波田館は北条氏に接収され、生き残った一族は北条家に仕えたようです。

 北条氏支配下となって以降の難波田城の動向は不明ですが、江戸と川越のつなぎの位置にあたる城として地域支配に利用されたと考えられます。

 天正十八(1590)年の豊臣秀吉による小田原征伐に際しては記録がないので、ほぼ無血開城に終わったと思われ、その後に関東の支配を任じられた徳川家康によって廃城となりました。江戸時代には十玉院というお寺があったそうです。

難波田城の縄張り(概略図)
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 水堀で区画された平城としての構造は見事なものですが、敷地が狭いので、重層の建造物はなく、はしごを組み合わせたような井楼櫓が物見用に建てられていた程度だと思われます。本郭に城主が居住していたとしても、現在遺構が残るあたりに人が住めたとは思えません。番所などの防御施設で一杯のはずです。長期に渡る篭城戦に臨む事は無理であったと思います。

 搦手を入ったところが二の郭という伝承がありますが、蔵があったそうですし、スペースも広く、家臣の屋敷もあったはずです。もしかすると築城当初はこちらが大手であったのかもしれません。現在、遺構が見ることが出来るのは本郭より南、馬出し状に突出した二の郭からこれを囲む三の郭、さらに四の郭の一部です。このあたりの構造は小田原北条氏の築城技術が導入されているように思います。いくつか、孤立した郭が見られますが、墓地や宗教上の施設、蔵などがあったのでしょう。

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大手門跡に復元された門。ここから水堀で区画された三つの郭を経て、本丸(門の向こうに見える家のあたり)へ至ります。

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手前の橋は当時はありません。堀を隔てた右岸が四の郭、その奥、東屋風の休憩所の見える所が三の郭、更に奥の赤い植木の見えるあたりが二の郭で、その向こうの家の建つあたりが本郭です。堀の幅や土塁の高さこそ小さいものの、立派な城郭であったことが分かります。

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上の写真は四の郭から見た三の郭で、土塁と水堀が見られます。下は四の郭から三の郭に至る門の跡で、敵の侵入を阻む食い違い虎口になっています。

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上の写真は三の郭から見た二の郭。発掘調査から、橋の幅が三の郭に向かって広くなっていたことが分かり、攻めこむのに不便で、なおかつ出撃するのに便利に作られていました。 下の写真は逆方向から見た三の郭(右)と二の郭。

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城とは関係ありませんが、明治初期に建てられた古い民家が移築してあります。 四の郭の西にあたるこのあたりは当時、水堀でした。

大池寺

所在地:滋賀県甲賀市水口町。小堀遠州作と伝えられるサツキの庭園が美しいお寺。

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小堀遠州作庭と伝えられる枯山水庭。波間に浮かぶ宝船と七福神、七宝を表現したといわれています。

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 天平年間(西暦700年代)、行基によって開山されたと伝えられ、当初は青蓮寺と称していたようです。宗派も元は天台宗であったものが、鎌倉時代に禅宗が伝えられた事により、禅宗に改めて現在に至ります。戦国時代に兵火にかかり、一旦荒廃しますが、江戸時代に入って大池寺と名を改めて再興され、今日に至ります。

 見所は小堀遠州作と伝えられる庭園で、サツキの刈り込みが独特の風情を見せてくれます。また、周囲にはその名の通り、池がいくつかあり、豊かな自然と静けさの中、ちょっとした散策にも向いています。

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山門。手前の松の枝や敷き詰められた苔などが、目を楽しませてくれます。


↑滋賀県の温泉宿↑

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拝観料を払って入ったところで目に飛び込んでくるのが、この見事に広がる松。


↑近畿地方の宿↑

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枯山水庭を別の角度から。白砂にサツキのみでデザインされています。背景の山林がまた美しいです。


↑滋賀県甲賀市の賃貸物件情報↑

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寺の周辺にある池では最大の弁天池、右手の小島に弁天堂があったのでしょう。蓮の花も綺麗です。

大圓寺

所在地:東京都目黒区。江戸時代初期に建立されたお寺で、江戸三大大火の一つ、明和の大火の火元であるといわれています。

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境内に入るや左手にズラリ並んだ五百羅漢。こんな都会の片隅に…とビックリさせられます。

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 江戸時代初期、元和年間に開かれた寺で、当初は修験道場であったようです。JR目黒駅のほど近く、行人坂を雅叙園に下りていく途中にあります。都心で気軽に立ち寄れる史跡の一つですね。

 寺には鎌倉時代に作られた釈迦如来像(重要文化財)の他、庶民の人気を集めた大黒天などが祀られていました。

 ところが、明和九(1772)年、江戸の三大大火の一つ、「明和の大火」がこのお寺から出火し、江戸城の一部をはじめ、城下の三分の一を焼く大惨事を引き起こしてしまいます(大火後、年号が「明和九=迷惑」ということで、速やかに改元が行われたそうです)。

 寺の焼け跡には犠牲者の霊を慰めるため、石造の五百羅漢が並べられました。その後、76年を経て薩摩藩の援助によって嘉永元(1848)年、寺は再興され、今日に至ります。明治時代に入ると、大圓寺が再興されるまでの間、寺宝を管理してくれた明王院(現雅叙園)が廃寺となり、明王院の寺宝、仏像などは大圓寺が引き取りました。境内は小さいですが、多くの板碑や、本堂内の仏像が歴史の古さを感じさせてくれます。

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嘉永元年に再興されて以来、保存されている本堂。近辺の寺の本堂を買い取って移築したものだそうです。


↑目黒区の賃貸情報↑

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五百羅漢の奥は塀を隔てて行人坂、交通量も多いですが、参拝者はまばらです。

滝の城

埼玉県所沢市。詳細は不明ですが、戦国時代に築かれた城跡と言われ、堀や土塁が残されています。

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本丸跡に立つ碑。神社はきれいに整備されていて、それなりに立派です。

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 戦国時代、後北条氏によって利用されていたと考えられていますが、城主や利用された経緯に関して、詳しいことのわかっていない城です。場所的に川越城と江戸、滝山、八王子城を結ぶ地域にあるので、その辺りを繋ぐための城郭であったと思われます。あるいは武蔵国内の反北条方の代表格、太田氏の居城である岩槻城に対応する目的があったのかも知れません。

 背後(南側)に柳瀬川の流れる段丘上に築かれていて、比高20mほどの城山頂上が本丸、そこから更に一段高い部分があって物見台、櫓があったのかな、という印象を抱かせます。

 本丸は現在、城山神社として整備されています。そこから空堀を隔てた二の丸は、半分が民家(神社の管理者宅だと思う)ですが、残りの部分はわずかに土塁も残っています。空堀は「こんな住宅街の中に!」と驚くほどしっかり残っていますね。ただ、本丸、二の丸とも規模は小さく、城と言うよりは陣所の大規模な物という感じがします。




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二の丸。写真左の暗い部分が土塁でその向こうは空堀です。

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二の丸を囲む空堀は深さ、幅共に5mくらい。400年分の土砂が積もっていますので、城が使われていた当時は、もう少し規模が大きかったと思います。

平将門首塚

都心に鎮座する伝説の地。戦後の進駐軍すら手を付けるのを止めたと言われている。

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真新しい石碑。ピンクの付箋らしきものが中央下に見えますが、「お酒をかけてはダメ!」と書いてあります。

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 平安時代の天慶2(939)年、時の大和朝廷を震撼させたのが関東武士、平将門の乱でした。将門の挙兵自体は常陸国、今の茨城県で起こったのですが、何故か将門の首塚は都心のど真ん中にあります。京都に晒された将門の首がここに飛んできて、以来、奉られるようになったと言われています。

 実際、徳川家康が江戸に入部した頃から、このあたりには神社があったそうです。徳川氏の世となり、江戸城が巨大化するにつれ、この地の神社は神田に移され、神田明神となりました。

 江戸時代は譜代大名酒井家の屋敷が建っていたそうです。恐らく、首塚は残され、付近は庭園として利用されたのでしょう。ちなみに仙台藩のお家騒動として知られる伊達騒動の裁断はこの地で下され、仙台藩家老原田甲斐守宗輔、伊達安芸守宗重らが討ち果たされたのもここです。

 この首塚の存在を有名にさせたのは祟りの伝説です。大正時代、関東大震災の後に首塚を破壊して大蔵省の仮庁舎を建てたところ、時の大蔵大臣が急死したのをはじめ、大蔵省職員や仮庁舎の工事関係者に負傷者が続出し、神田明神に鎮魂祭をお願いし、首塚を再建した事。そして、太平洋戦争後、進駐軍がこの地に駐車場建設を強行したところ、工事車輌が横転するなどの事故が起こり、結局、工事が中止された事がよく知られています。ここで不思議なのは徳川氏の江戸入城に際しての神田明神の移転や武家屋敷の造営に関しては祟りの類は記録にも出ていないことです。

 個人的には、祟りを否定するつもりはありませんが、その原因は将門ではないと私は考えています。

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真新しい石碑の裏に古い首塚を示す石塔があります。多分、江戸時代のものだと思うけど…

関が原古戦場跡

所在地:岐阜県関が原町。

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徳川家康が戦闘終結を迎え、首実検も行った陣所跡。近くに資料館もあります。開戦時は田中吉政が布陣していました。
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石田三成本陣跡の笹尾山は柵などが復元されてお り、「古戦場跡」という雰囲気が今も残っています。

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 慶長5(1600)年9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍、双方合わせて15万人を超える大軍が豊臣秀吉亡き後の天下の覇権を巡って激突したのが、この関が原です。

 近江国(滋賀県)と美濃国(岐阜県)の境目に位置する関が原は、当時から中山道と伊勢街道および北国街道が交わる交通の要地で、現在も名神高速道路、東海道新幹線が通っていて、その重要性は今も昔も変わりません。

 関が原の戦いを簡単に説明すれば、東軍が関が原を抜けて、京都、大坂方面への進出を目指したのに対し、それまで関が原の東にある大垣城を本拠にしていた西軍が、これを阻止せんと出撃、各街道を封鎖するように布陣したものの、東軍は強行突破を目指して大激突…ということになります。

 細かい戦闘経過は省きますが、早朝から始まった合戦は、正午前後に中山道を南西から見下ろしていた西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り、西軍の側背を突いたことで崩壊、たった1日の合戦をもって徳川家康は、自身に対抗する勢力を一掃してしまったわけです。

 通常、古戦場跡というのは遺構が残っていることは少ないものですが、関が原は広い地域に興味深い遺構がいくつかあり、楽しめます。しかも、全て見て回るには、1日かけても無理で、私自身も、東軍諸隊の陣所跡や南宮山には、まだ足を運んでいません。これまで、三度ほど訪れていますが、いくつか、参考になる写真を示しておきます。




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笹尾山の石田三成本陣から東方を見下ろした様子です。この周辺が最大の激戦地であったと思われます。左側にうっすらと見える大きな山が南宮山で、その向こう側に西軍の毛利、長束、長宗我部ら3万余が陣取っていましたが、傍観に終始していました。(というより戦況の把握すらできなかったのでは?)写真右側の山の切れ目が伊勢街道で、島津軍が逃走した方向です。左側の赤い印は上が徳川家康の開戦時の本陣、桃配山で、下は東軍先鋒の黒田長政の本陣があった丸山です。そこから右に細川忠興、加藤嘉明…と東軍諸隊が展開し、まっしぐらにここに攻めかけてきたわけです。

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こちらは上の写真と同じ位置から南方を見たところ。青い印が島津義弘の陣所跡、右の山が天満山で、ちょうど旗の「大一大万大吉」文様の裏側あたりに小西行長の陣があり、山の向こうに宇喜多秀家、大谷吉継が展開。更に旗の上、白い部分の裏側にあたる山が小早川秀秋の本陣、松尾山です。

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左側は、西軍の指導者の中で、唯一、戦場で討ち死にした大谷義継の墓所です。陣所跡はここから更に10分ほど歩きます。中仙道を見下ろしつつ、当初から裏切りの噂があった小早川秀秋の部隊と対峙するにも、絶好の場所です。このあたりを見ると、どうも小早川秀秋の裏切りは確定的であったのでは?と思えます。 右側は旗しか撮影していませんが、やはり西軍の島津義弘の陣所跡です。有名な敵中突破で戦場離脱を試みた千五百人の薩摩兵も、戦場を離脱したときには八十余名にまで激減していたそうです。
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合戦当時、病の為に視力も失っていた大谷吉継に代わって、大谷隊先陣の指揮を取った平塚為広の陣所跡。背後の山に入って大谷吉継の墓所に向かうのですが、この周辺は段差(現在は畑)が多く、軍勢の陣所の名残のように思われます。
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これは島津陣跡近くから小西陣所跡をみたもの。右側の山が天満山で、その裏側の山麓に宇喜多秀家率 いる1万8千人が布陣していました。更にその向こう、写真ではうっすらと浮かぶ山が松尾山で、小早川秀秋が激戦を傍観していました。黒で印をつけたあたりが本陣跡で、現地に行けば、旗も見えます。現地であれを見ると小早川軍の存在が両軍にとって相当な圧力になっていたであろうことが想像できます。
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キリシタン武将として知られる小西行長の本陣跡です。約4千の軍勢と共にこの地に陣取った行長ですが、敗れた後に逮捕され、石田三成らと共に斬首されました。朝鮮の役における活躍は目覚しく、過小評価、誤解されている人物といえそうです。


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松尾山山頂の小早川秀秋本陣跡。石碑の後に土塁が築かれているのがわかると思います。しかし、山頂部 分は狭く、武装した将兵が陣取るには、100人入るのがやっとではないかと思われます。
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松尾山山頂への入り口部分は土塁で囲まれた枡形虎口になっていたと思われる、厳重な構造になっています。この入り口を下ると公衆トイレがあるのですが、そこにも土塁が築かれており、陣所であったと思われます。
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松尾山山頂、小早川秀秋本陣跡から見下ろした関が原。青い印が上=石田三成本陣、右下=小西行長、左下=宇喜多秀家で赤い印が黒田長政の本陣跡です。宇喜多陣の印の左にある木の裏側が大谷吉継隊の先陣が布陣していたと思われ、戦況をかなり正確に把握できたことが想像できます。ちなみに、ここまで登るのに3~40分かかります。

駿府城

静岡県静岡市。徳川家康の隠居城であった平城。だいぶ破壊されていますが、一部、門などが復元されています。

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本丸跡に建つ徳川家康公の銅像…ちなみに右下に写るのは人魂ではなく、雨粒です。

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 駿府は「駿河国府」、「駿河府中」を略した呼び方です。それこそ、武士が台頭する時代以前から地方政治、経済の中心として栄えていたわけです。

 室町時代に駿河国の守護に任じられた今川氏はこの地に館を築き、後には戦国大名化していきます。この頃の館には現在の県庁周辺や、駿府城公園を取り巻く巨大な堀や石垣はなく、方形の敷地に館を建て、その四方に堀を掘って土塁を築いた程度のものであったと思われます。ただし、駿府城址の北西2kmの地に賎機山城という山城があり、戦時にはこの地に立て籠もるという考えを持っていたようです。

 永禄11(1568)年、甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏は滅亡、駿府は戦火にさらされてしまいました。武田氏の駿河領有は十数年に及びますが、駿府は戦略的にも、それほど重要視されなかったようです。

 天正10(1582)年に武田氏は滅亡し、駿河は徳川家康の領有するところとなりました。同年6月2日の本能寺の変以降、家康は駿府城を新たな居城と見定め、天正13年に工事を開始しました。これが現在の駿府公園内、本丸から二の丸にかけての範囲ではないかと思います。ただ、現状と構造はまったく違ったかもしれません。

 駿府城がようやく完成した直後、家康は秀吉の命によって江戸に移りました。代わって駿府城に入ったのが、秀吉の家臣である中村一氏でした。しかし、中村氏も慶長5(1600)年の関が原の合戦後には米子に移り、駿府は再び徳川家の領有するところとなりました。家康は駿府を自らの隠居所として、将軍職を子の秀忠に譲った後、再び、駿府城の改修をはじめました。現在、我々が目にすることが出来る駿府城の遺構はこのときのものです。

 城の構造は至ってシンプル。方形の本丸をロの字型の二の丸、それを更に三の丸が囲む形で、随所に石垣が屈曲して側面から侵入者を狙撃できる構造が見られます。

 大手門をはじめとする三の丸への通用門は思ったほど、堅固には仕上げていなかったようです。最終的な築城工事が終わる前に豊臣氏の滅亡、家康の死といった、城を堅固にする必要性を失わせる事態が起きたのかもしれません。

 一方で二の丸、および本丸への通用門は全て枡形構造で防衛力は格段に上がっています。これらの通用口に向かう橋は全て木造で、いざとなれば切り落とすことも出来ました。また、本丸全域は櫓で囲まれていて、それだけで充分、要塞として機能できたと思われます。

 珍しいのは水門の存在で、物資を堀から直接、船で荷揚げしていたようです。天守の形もまた珍しいもので、通常、天守台いっぱいの敷地を利用して天守閣は築かれるものですが、駿府城では天守台の四隅に隅櫓を築き、これらを渡り櫓でつないで天守郭とし、その中央に天守閣を築くという手法が取り入れられていました。

 家康の死後も駿府城は徳川幕府にとって、関東への入り口を守護する重要拠点として機能しましたが、明治維新から戦後にかけての開発で建物はもとより、天守台などの石塁まで破壊され、堀も過半が埋められたことは残念でなりません。

 二の丸の堀は残っており、そこに復元された二の丸東門と巽櫓が当時の壮大な城郭を想像させてくれます。




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復元された二の丸南東方向を守備する巽櫓とそれに連なる東御門。

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これも東御門。悪天候で夕方…最悪の条件下で撮影したものです。
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東御門を正面から撮影したもの。左右に開かれた銃眼とその向こうの枡形を囲む石塁と多門櫓が威圧感充分です。手前の門をくぐって右手の建物が櫓門になっており、これを突破しないと城内には入れない仕組みです。

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公園内で発掘された本丸の堀と石垣です。今となっては破壊した事は残念と言う他ありません。

常楽寺

所在地:滋賀県甲賀郡石部町。奈良時代に建立された古刹で、本堂と三重塔は国宝です。

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国宝の本堂と三重塔。左下に見える石造りの灯篭も重要文化財だそうです。

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 奈良時代、和銅年間(708~715)に建立された古刹です。室町時代の延文5(1360)年に一度火災で焼失しましたが、程なく再建され今日に至ります。

 本堂と三重塔は国宝で、本堂内部には本尊の千手観音像をはじめ、二十八部衆立像など重要文化財指定を受けた寺宝が多数、収蔵されています。本堂と三重塔は建築時代を反映した豪壮なつくりです。

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桧皮葺の華麗でありながら、力強い反りを見せる本堂の屋根が見所です。
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三重塔は瓦葺です。三重塔としては最大の規模だそうです。私も見上げた瞬間「でかいなぁ」と感じました。

甲府城

山梨県甲府市。関東甲信越随一の壮大な石垣が残る平山城です。

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甲府城本丸天守台跡。以前は天守閣までは建てられなかったと言われていましたが、最近は存在説が強いそうです。

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その歴史

 戦国大名、甲斐武田氏の支配下にあった甲斐の国では、その中心は躑躅が崎館でした。天正十(1582)年に武田氏が織田信長によって滅ぼされ、その信長自身もその年の6月2日、本能寺の変でこの世を去ります。

 織田氏の統治が弱まり、一時的に混乱状態に入った甲斐の国に進出したのが徳川家康でした。家康は関東の北条氏、信長の後継者の地位を築きつつあった羽柴秀吉らの脅威に備えて、新たに堅固な城郭を築くことにしました。

 家康は躑躅が崎館から南へ約2km離れ、それまでは見張り用の番所が置かれていた高台、一条小山への築城を決めます。工事は家康の重臣の一人、平岩親吉の手によって行われました。恐らく、城の構造自体はこの時に決められたのではないかと思います。これは城の縄張り図を見ると、複雑な構造が浜松城や岡崎城といった家康の居城に似ているように思えるためです。

 しかし、家康は豊臣秀吉との間に和議を結ぶ事になり、北条氏滅亡後、秀吉から新たに関東への移封を命じられます。

 徳川家の後、領主となったのが秀吉の重臣、加藤光泰で、光泰の死後は浅野長政、幸長親子です。彼らは名将、武田信玄への追慕の念が強い甲斐の人々に対し、新たな時代の到来を示すべく、石垣による壮大な城郭を築きました。

 そのような意図の元に完成したのが、現在も甲府駅の脇に巨大な石塁を残す甲府城です。

 関ヶ原の合戦後、甲斐には義直(家康九男、後の御三家、尾張藩祖)、忠長(秀忠次男、後自害)、綱重(家光次男、六代将軍家宣の父)と徳川一門の続いた後、五代将軍綱吉の重用を受けた側用人、柳沢吉保が入り、整備されていきます。

 柳沢氏が大和郡山に転封後は、甲斐は幕府の直轄(天領)となり、明治を迎えることになりました。


城の構造について

 甲府城は城の原型であった一条小山全体が石垣で固められており、石積みの手法は織田~豊臣時代の手法を色濃く残した野面積みです。この石垣が殆ど残されているのが見所です。江戸、大坂、名古屋城をはじめとする江戸時代に築かれた石垣のような均整の取れた美しさはありませんが、その質実剛健な石積みに戦国乱世の空気を感じることが出来ます。特に本丸入り口にあたる鉄門脇には巨大な石が使われていますし、天守台東側の石垣の高さは10m前後はある壮大なもので圧巻です。

 関東近辺では江戸城跡以外でこれほど豪壮な石垣を見ることが出来る場所はないので、一見の価値はあると思います。

 堀は南側の一部を除いて殆ど埋め立てられており、北から西側にかけては甲府駅や線路が敷かれ、遺構は残っていません。

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天守台東側の最も石垣が高く築かれている部分です。傾斜の緩やかさが創建時代の古さを予想させます。江戸城の一部にもこういう場所はありますが。

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城跡東側には石垣の屈曲が重なり、側面からの銃撃を可能にさせた構造を見ることが出来ます。上の写真の塀のある部分は当時、櫓が連なって堅固な備えを誇っていました。 当時は水堀があったのですが、現在は殆ど埋め立てられていて南側に一部残っているだけです。この写真を撮影した場所も今は道路ですが、当時は水堀でした。



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本丸入り口の鉄門跡。階段部分は最近の修理によるもの? 写真では分かりませんが、左側の石積みに巨大な石が使われています。 この付近の石塁の配置は特に複雑で厳重な防備を意図していたものと思われます。



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南側の鍛冶曲輪から本丸を見上げたものです。中央の天守台石垣、その下が本丸帯曲輪です。 ここに立つと、右から左まで石塁に囲まれており、万一、敵の侵入を許した場合には、ここに誘い込んで殲滅しようと考えていたようです。


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天守台から北東方向、稲荷曲輪櫓の復元工事中でした。
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そして復元された稲荷曲輪櫓。こうして城内から見ると簡素な外観です。
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稲荷曲輪櫓の東面。城内から見た簡素な様子と違い、多くの格子窓に石落しがせり出しています。屋根の組み方が珍しいですね。普通は一階の軒と石落しの屋根が一体化しているものですが、独立させて複雑な外観にさせてあります。
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稲荷曲輪櫓の北面。東面とは微妙に違っています。

岐阜城

岐阜県岐阜市。濃尾平野を見下ろす金華山に築かれた山城です。随所に遺構も残っていますが、とにかく山上からの眺めが圧巻です。

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二の丸から本丸に登る石段の途中から撮影した模擬天守

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 標高329m、濃尾平野を一望できる金華山頂に城郭が築かれたのは鎌倉時代にまでさかのぼります。永禄年間末に織田信長によって岐阜城と名づけられるまでは稲葉山城、あるいは井の口城と呼ばれていたそうです。

 この山は強固な岩盤で出来ているため、飲料水の確保が困難であるという致命的な欠点があります。ですから、築城時は見張り台の一種という意図の元に築かれたと思われます。基本的に城主は山麓か、山を下りたほど近く、加納の地に館を築き、そこで生活、政務を執っていたようです。

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本丸下にある井戸跡。ただし、自然に水が湧くのではなく、雨水を溜めるために掘ったものだそうです。
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同じく本丸近くにある「金銘水」と呼ばれる軍用井戸です。井戸というより、岩盤を掘った溜め池という趣があります。今は苔、藻の類がビッシリ。

 応仁の乱を機に世が戦国時代に突入すると、美濃国守護である土岐氏が没落、代わって家老の斎藤氏のそのまた家来にあたる長井氏が台頭してきます。もともとは法華宗の僧であったという長井新左衛門尉とその子利政は二代で主の斎藤家ばかりか守護の土岐氏をも滅ぼし、自ら斎藤氏を名乗って、美濃の国主の座につきます。この長井利政こそが戦国時代、下克上の代表的人物として北条早雲と並び評される斎藤道三です。

 しかし、長井親子の謀略を駆使した強引な御家乗っ取りのやり口は隣国の戦国大名ばかりでなく、国内の諸豪族の反発をも招いたのでしょう。用心深い道三は居城を堅固な山城である稲葉山に定め、それまで居館としていた加納から移りました。恐らく、このときに現在の天守閣ほどではないにせよ、それなりの建築物を山麓と山頂に築いたのではないかと思われます。美濃国主としての実力、威光を見せつけるためです。

 その後、道三は国主の座を子の義龍に譲り稲葉山城も明渡して近くの鷺山城に移りますが、両者は対立、親子は戦で相争うことになります。

 これについては道三が義龍を廃嫡して弟のいずれかを後継者に据えようとしていたとか、義龍の実父が美濃の守護、土岐頼芸であったためだとか、諸説ありますが、居城を明渡して一旦家督を譲ったに等しい形をとっていることを考えると、理屈にあいません。むしろ、道三の娘婿である織田信長との関係が最たる理由であったように私は思います。結局、美濃の諸将の大半は義龍に味方し、岐阜城下の長良川の合戦で敗れた道三は討ち死にしてしまいます。

 道三の死後、織田信長は義父の仇討ちという大義名分を掲げて、美濃への侵攻を開始します。約10年に及ぶ攻防戦の末、信長は稲葉山城を攻略し、肥沃な濃尾平野を確保した大大名にのし上がります。このときに「岐阜城」と名を改め、現在、発掘された遺構などで見ることが出来る体裁に完成させたと思われます。

 信長は約10年間、岐阜を本拠として諸国で戦い、勢力を広げますが、天正4(1576)年に近江安土に移り、代わりに信長の嫡男、信忠が入りました。しかし、天正10年に本能寺の変によって信長、信忠親子が自刃してしまい、以降、めまぐるしく城主が入れ替わることになります。

 信長の三男信孝は、在城1年と経たない内に、羽柴秀吉に敗れて自刃、続いて岐阜城主に納まった池田元助も小牧長久手の合戦で討ち死にし、元助の弟輝政に代わります。

 輝政は5年間と比較的長期にわたって岐阜城主の座にあり、天守の形状を含め、城址を現状に近い形に改修したのは輝政であったようです。しかし、輝政もまた、秀吉による全国統一を機に三河吉田へと移り、替わって秀吉の甥にあたる羽柴秀勝が入りますが、朝鮮出兵に動員された末、翌年病死してしまいます。

 最後の城主となったのが、信長の嫡孫にあたる織田秀信です。しかし、程なくして豊臣秀吉が死去し、その後継者を巡り、徳川家康と石田三成をはじめとする反家康勢力の争いが激化、慶長5(1600)年に両者は武力衝突に至ります。このとき、秀信は石田三成らを中心とする西軍に加わり、岐阜城は両勢力の境目、最前線に位置することになります。8月23日、池田輝政、福島正則を先鋒とした東軍諸隊が岐阜城に攻撃を開始、急峻な山道をものともせず攻め寄せる猛将たちの前に、秀信は1日と持ちこたえることが出来ずに降伏してしまいます。その後、9月15日に行われることになる関が原での決戦を前に東軍の優勢を決定付けさせた戦いでした。

 秀信は命は取られず、高野山へ追放処分となりますが、そこで26才の若さで亡くなります。岐阜城は山城であることが嫌われたのか廃城となり、城内の建物や石垣は撤去され、新たに築かれた加納城へと移されてしまいます。

 現在は山麓部分にわずかながら石垣や土塁が残されており、山頂部分には復興天守閣が立っています。ただし、天守台の石垣は遺構を壊して新たに築いたものです。築城時の石垣も一部見ることが出来る他、井戸の代りを成した溜め池があります。山頂からの眺めは絶景で、濃尾平野を手に取るように望むことが出来、当時の戦略的な重要さが偲ばれます。

 夏季には夜景も見られますので、歴史に興味のない方にも是非、訪れてもらいたい場所です。

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山麓の御殿跡の門と考えられる部分の遺構。根っこの部分に巨石が並ぶ土塁が圧巻。 この土塁や石垣が実際は更に高いものであったのかは不明です。写真左端に見える柱は掘建て柱跡で、番所か厩のようなものが建っていたと考えられます。この土塁に沿って更に右に進んで左に曲がると、下の写真のようになります。
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奥に見える建物は山頂へと伸びるロープウェイの駅です。道は更に右へ屈曲しており、これを曲がると…
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小さな石を敷き詰めた石畳が現れ、この付近が何か特別な場所であったことを窺わせます。道の右半分が不自然に掘られてありますが、この下には一度火災に遭っている、更に古い時代(斎藤氏時代?)の石塁の遺構があり、それが見られるようになっています。古い石塁に使われている石が小さいことがこの写真からも分かりますね。
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これは上の写真の通路から左に外れた部分に見られるのですが、石で積まれた水路の跡です。


↑岐阜県の温泉宿↑

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約40分、大手道を上ったところで城の中枢部に到着。門をくぐった先が三の丸で、左上方にはこの付近を監視する櫓がありました(現在はロープウェイの駅や展望台)。慶長5年の岐阜城攻防戦でも、この付近で城兵が抵抗したそうです。
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更に進むと二の丸門へ。道が屈曲しており、防衛上の配慮がなされています。手前の手すりの所に大きな石が見えますが、これらは築城時に積まれた石垣のようです。奥の石塁や塀、門は近年のものです。
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二の丸から見た天守。この模擬天守は後に加納城に移されたという三階櫓の図面を参考に建てられたらしいです。ただし、信長時代とは形状が違うと考えられています。


↑岐阜城近くの宿↑

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天守の根元の石垣を撮影したものです。上の方の光ってしまっている小さめの石で積んだ部分は近年の模擬天守建築工事に伴って築いたもの。で、手前の石垣が築城当時の石垣です。


岐阜県の賃貸情報

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天守閣最上階から名古屋方面を見たもの。
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これは西方、長良川を経て大垣、関が原方面を望んだ写真。霞がかっていて、さすがに関ヶ原までは見通せませんが。
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上の写真とほぼ、同じ方向で夜景を撮影したものです。

加納城

岐阜県岐阜市。山城の岐阜城を廃して、江戸時代初期に築かれた平城で、石垣の一部が残っています。

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本丸南東面の石垣で、写真からはよくわかりませんが、セメントなどを流し込んで補修したような形跡があります。空き地部分はかつての堀跡です。

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 岐阜城にほど近い加納の地は、古くから美濃守護代斎藤氏の居館を中心に栄えていたようです。実際、稲葉山(岐阜)城主であった斎藤道山が加納の市に対して楽市令を命じている書が残されています。

 その後、関が原の合戦を機に徳川家康は、山城である岐阜城を廃城として、新たに娘婿の奥平信昌を加納城主に据え、近世の美濃国の中心に相応しい城郭を築くことにしました。築城の指揮は徳川四天王の一人、本多忠勝が執りました。

 城は岐阜城の建物や石垣を移して築いた平城で、二の丸には岐阜城の天守が御三階櫓に改造されて据えられました。天守閣は建造されませんでした。

 明治時代に廃城となって、建物は全て撤去、堀も埋められ、わずかに本丸の石垣のみが残されています。近年、周辺の発掘調査が進み、様々な発見が得られているようです。平成16年には堀底を障子の様に区画していた畝が発掘されたそうです。関が原以降に築かれた城郭では極めて珍しい遺構です。

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本丸石垣の北東面で、天守台跡にあたります(実際には建てられませんでした)。石垣の高さは5m程あったように思います。


↑岐阜県内の温泉宿↑

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これは本丸石垣の西面。広い堀に囲まれた大城郭であったことが想像できます。


↑中部地方の宿↑

加納城縄張り図
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 太鼓郭から大手門まで500mくらいでしょうか。現存しているのは本丸の石垣のみです。城は西から流れてくる清水川と北東から流れてくる荒田川との合流点に築かれています。

 荒田川を隔てた東岸は深田や湿地であったようで、北東から西に向かって中仙道を通し、城下町もこれに沿って開かれています。

 本丸は三方に門が開かれていますが、全て木橋で、いざというときは取り外す事が出来ました。大手門から本丸に至るには三の丸~厩郭~二の丸と城内をジグザグに移動しなければならない上、その間、常に二つの方向から弓鉄砲の攻撃に晒される巧妙な構造になっています。

 図の緑部分は櫓でピンク色部分は門ですが、二の丸の北東の櫓は岐阜城から天守閣を移築したもので、御三階櫓と呼ばれる城内でも最大の建築でした。本丸に天守閣は建てられず、北東に石垣の天守台だけが築かれていました。それだけに城の中枢が何処なのか、外からではわからなかったかもしれません。

 興味深いのは本丸が西側に面して直接、最前線に晒されてしまっている事で、これを克服するため、長刀堀という南北に渡る巨大な堀を一本通しています。他の方向は川や湿地で軍の展開が難しいので、城を巡る主戦場は西側になるわけで、これを長刀堀で一手に引き受けようという意図を感じます。中仙道の北方には寺町が配されており、西から攻め込んできた敵は大手方向に回りこみにくくしてあります。逆に城方は広い外郭に展開して迎え撃つ事も、城内に引きこもって迎撃する事も可能です。

 このほか、城内太鼓郭近くのA及び二の丸脇のBは舟入だったように思います。城の外からは見通しの利かない位置にあり、普段は物資の搬出入に、戦時においては脱出や迂回奇襲に利用するつもりだったのでしょう。

 方形の郭を並べたシンプルな構造ながら、守りやすいという徳川氏の築城技術が窺える城です。どちらかというと平山城の多い豊臣系の城郭と比較してみると面白いですね。

掛川城

静岡県掛川市。二の丸御殿は貴重な重要文化財です。木造による復元天守も見所。

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 私が訪れた日はサッカー、ワールドカップのドイツvsカメルーン戦が行われたため、このような旗が天守に翻っていました。

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 掛川城は応仁の乱をきっかけに突入した戦国時代、駿河の守護大名、今川氏が遠江国進出を狙って築いた城郭です。築城当初は、城の中心が現在の天守閣のそびえる城山から約240mほど北東にある、天王山という小山にありました。古城跡には現在も巨大な堀切が残っており、山頂には当時の藩主が徳川家光を祀った霊廟があります。

古城跡に建つ徳川家光の霊廟
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やや傾き気味の写真で恐縮ですが…小さいながらも立派な建物です。

 城が現在の位置に移ったのは永正十(1513)年以降で、漸次、改修、移転を図ったといわれています。移転の理由は良くわかりませんが。

 しかし、一時は栄華を誇った戦国大名、今川氏も氏真の代に至って没落。永禄11(1568)年、武田信玄と徳川家康の攻撃を受けることになります。今川氏真は掛川城に籠城して徳川軍と戦いました。このとき、徳川家康は古城跡を本陣に据えたそうです。結局、氏真は家康と和議を結び、関東の北条氏を頼って掛川上を落ち延び、これによって戦国大名、今川家は滅亡します。

 掛川城を占領した徳川家康はその後、これを拠点に武田氏と交戦を続けることになります。徳川氏による掛川支配は天正18(1590)年の豊臣秀吉の命による家康の関東移封まで続きました。

 家康が去った後、掛川城主に5万石を与えられてやってきたのが、秀吉の家臣、山内一豊です。一豊は掛川城に天守閣を造営し、石垣を使用するなど、近世城郭としての大改修を行いました。現在の城山に残る遺構は、構造は今川時代のものを踏襲していると思われますが、復元、あるいは残された建築物は山内時代の名残を強くとどめています。

 城は山頂に外観三階、内部四階建ての天守が建ち、天守入り口脇に付け櫓が伴う形式は初期天守閣に多く見られる形状です。最上階には高欄が廻っています。江戸時代後期にはこれを室内に取り込んでしまったそうです。

 天守が建つ山頂部分は敷地が狭いので、その一段下を本丸として御殿を造営、更に二の丸、三の丸と下っていきます。こじんまりとした山ですが、随所に堀も掘ってわずかな兵力で戦えるように防備に気を配っています。徳川家康が手を焼いたのも納得できますね。

 山内一豊は関が原の戦いで功を上げ、土佐22万石へ加増移封され、以来、掛川城主には徳川譜代大名が赴任し、明治維新を迎えることになります。

 城郭は地震や火災でたびたび被害を受けますが、その都度、旧観を模した修復が行われたようで、近年に至って、山内時代の天守閣も復元されました。二の丸御殿は江戸後期の建築で重要文化財に指定されています。江戸時代の大名の住居をじっくり見ることが出来、一見の価値があります。

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 これまた、写真が傾きがち(苦笑)。
 手前が復元された大手櫓門で、その向こうにあるのは番所で、こちらは江戸期当時の遺構。
 立派な鯱の上がった櫓門ですが、屋根が瓦葺であるのに対し、庇が桧皮葺で仕上げられている点が、古式な手法であることを窺わせます。


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 現存遺構の一つ、太鼓櫓(二階建て部分)とそれに続く多聞櫓。多聞櫓には格子窓や銃眼などは見られず、防衛施設というより倉庫のような印象を受けます。
 実際は別の場所にあったもので、本丸の荒布櫓跡に移築されています。そのため、石垣が余ってせり出しているような不自然な形で建っています。



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 重要文化財の二の丸御殿で、上の写真は天守閣の脇から見下ろしたもの。手前に連なる屋根が書院をはじめ、藩主の居所で、その奥右側が玄関で、左に政庁として役宅として使用された部屋が連なっています。ちょっと手狭そうですよね。


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 藩主が訪問者を引見した書院の上段の間です。
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 天井写真を二種。
 上は藩主の寝所の天井で一段せり上げた上に家紋が彫ってあります。私も藩主になった気分で寝転んで撮影しました。
 下ははっきり覚えてないのですが、賄い方の納戸とか役所部分の吹き抜け天井です。梁が意外に細い…これが大藩の御殿だと極太の良質な材木が使われていたりするのでしょうけど。


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 本丸から天守閣を見上げたところ。右側の塀に沿って通路があり、そこから上っていきます。
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 二の丸から天守を見上げたところ。左側、手前に向かって石落しが突出しています。
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 二の丸御殿の玄関付近から天守を見上げたところ。江戸時代の雰囲気が残る景観だと思います。
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 南東側、恐らく三の丸から天守を見て撮影したところ。左に見えるのは太鼓櫓。
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 二の丸から本丸にかけて伸びる土塁と塀。基本的に石垣は天守他、櫓台に使用されただけで、多くは土塁だったようです。

岡山城

岡山県岡山市。黒塗りの天守閣(復元)が印象的な平城。

岡山城復興天守
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復興天守。天守台が不等辺多角形という珍しい平面になっており、創建年代から、織田信長の居城、安土城を模したのではないか、とも言われています(安土城の天守台は不等辺八角形)。外観は2階建ての建築を3段に積み重ねたような古式な手法(望楼式天守と呼ばれる)で建てられています。右手前に大きく突き出た部分は塩蔵と呼ばれる付け櫓で、その裏側に天守への入り口があります。黒い下見板張りが一見武骨ですが、白い格子窓を多数設置しているので、軽やかな印象も与えます。写真は北西方向から眺めたもの。ちなみに現在は修繕工事によって鯱鉾などが金で飾られ、より華麗な印象を与えます。

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 創建は、かなり古いらしいですが、現在のような規模になる基礎は戦国時代末、宇喜多直家がこの地を居城に定めてからです。

 この宇喜多直家に関しては、暗殺や謀略ばかりが取りざたされ、とかく悪人扱いされています。

 祖父の代に一度は失脚し、流浪の身であった直家は宇喜多氏を武家として復帰させただけではなく、知謀を駆使して備前、美作(現在の岡山県の東半分)を統一しました。その課程において華々しい合戦の逸話はほとんどありません。彼の戦術の多くは標的とした敵指導者の暗殺、追放劇の繰り返しによって占められています。

 さらに、織田、毛利の大勢力に挟まれた中で両者を巧みに天秤にかけ、ほとんど領内に戦火を及ぼす事なく切り抜けた外交手腕は恐るべきものだと言わざるを得ません。合戦による領民、国内の疲弊や人的損失を最小限に抑えた戦略の徹底は優れた領主、政治家としてもっと評価されるべきでしょう。

 直家は天正9(1581)年に死去(翌十年説もあり)、その後、羽柴秀吉の後見によって子の秀家が跡を継ぎました。現在の本丸周辺が石垣や天守閣で整備されたのは秀家の時代だと思われます。

 宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍に加わったため、領地没収。その後、小早川秀秋が岡山城主になりますが、そのわずか2年後に急死、子がいなかったため、小早川家もまた断絶しました。

 小早川家の後に岡山城主に就いたのが、姫路城主、池田輝政の次男忠継です。母は徳川家康の娘である督姫、つまり忠雄は家康の孫にあたります。この頃、池田一族は姫路をはじめ、鳥取、淡路島も領有、「西国将軍」と呼ばれる一大勢力を誇りました。まだ大坂城に豊臣家が存在していた当時、池田家が豊臣家と中国、四国、九州の外様大名との間に打ち込まれたくさびの役割を担っていたわけです。

 こうして池田忠継の入城によって更に岡山城は拡張整備されていき、そのまま池田家の居城として明治維新まで栄えることになります。

 明治維新後、天守閣など、主要な建築物を除いて取り壊されますが、天守閣は太平洋戦争による空襲で消失、現在は外観を再現して復元されています。また、月見櫓と西の丸西手櫓が現存(重要文化財)しています。

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天守入り口付近、南西方向から天守を見上げて。手前が入り口。


↑岡山県の温泉宿↑

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天守南側正面から見上げてみました。下に向かうに従って極端なほど、末広がりな構造です。銃丸や石落としの類がほとんど見当たりませんね。


↑中・四国地方の宿↑

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月見櫓。上の写真は城内側から見たもので、2階は雨戸を取り払えば、その名の通り、茶会などの風流の場に使えます。同時に本丸中段(表書院)の北西守備の役目も担っていて、外側は格子窓や銃丸が備えられています。下の写真が外側から見たところで、2階の唐破風や1階の格子窓など、小振りな建物の割に洒落た外観になっています。

越後福島城

新潟県上越市。石碑以外、何ら痕跡を残さない幻の近世城郭跡。

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城の存在を示す石碑。土台の石は城に使われていたものとされています。これ以外に城の存在を示す遺構はほとんど残されていません。

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 豊臣政権期、越後の大半を領していた堀氏は、前の越後国主、上杉氏の居城である春日山城を引き続き利用していました。

 しかし、関が原の合戦を経て、戦国乱世に一区切りがついたこともあってか、改めて越後国主に任じられた堀秀治は、防衛重視の山城から都市と一体化して機能する新城への移転を決意、そこで新たに築かれたのが福島城です。完成したのは秀治が没し、その子、忠俊の代に入ってからの慶長12(1607)年、関ヶ原の戦いから7年後の事です。

 この城は日本海に面した平城で、石垣造りの大規模な城郭であったといわれています。

 ところが、慶長15年に忠俊と老臣、堀直寄らとの対立が表沙汰になり、若い忠俊は大国の主に相応しからずとして、堀氏の所領30万石は幕府に没収され、徳川家康の六男、松平忠輝が新たに福島城主に任じられてしまいます。しかも忠輝は程なく高田に新城を築き、これに移転、福島城はわずか七年間の利用で廃城となります。

 忠輝がなぜ、城を移したのか明確な理由はわかりませんが、日本海の荒波や水害に城が耐えられなかったのではないかと私は考えています。日本海に面した海城なんて、他に例がありませんから。海城のほとんどは波の少ない瀬戸内海沿岸に築かれているのです。

 不思議なのが福島城を固めていた石垣の行方です。新たに築かれた高田城は土塁作りで石垣はなく、壮大な石塁はどこに再利用されたのかが不明なのです。それとも実際は石垣の使用はわずかであったのか…謎は残ります。

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石碑の隣りにある縄張り図。本丸を中心に渦を巻くように曲輪が配されていた構造が窺えます。

犬山城

愛知県犬山市。古風な外観の国宝天守閣で知られる城跡。
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 木曽川は廃藩置県以前、尾張国(愛知県)と美濃国(岐阜県)の国境でした。その木曽川の南岸の断崖上に建つのが犬山城です。立地的にはいかにも古くから城があったように思えますが、現在地に城郭が築かれたのは戦国時代も終焉に近付いた関ヶ原の戦いの頃であったらしく、元々は城下の平地に木の下城という城があり、その後、現在の城地に近い小山、三光寺山(市役所?駐車場脇の小山)に移転した後に現在地に至ったとされています。

 天正十二(1584)年、羽柴秀吉と徳川家康が争った小牧長久手の戦いにおける緒戦は秀吉方の池田恒興による犬山城攻略でしたが、この戦いも三光寺に城があった頃の話であったそうです。

 現在の城地への移築を実行したのは石川貞清と考えられています。興味深いのは二の丸から本丸への登城ルートが、ほぼ一直線の石段で、その両脇を桐の丸、杉の丸、樅の丸が固めているという構造になっている事です。これは織田信長の安土城の大手道付近の縄張りにそっくりです。石川貞清という人は生年が不詳で、秀吉の家臣としての活躍も小田原の陣が確認される最初のものですが、安土城を見たことがあって、それを参考にしたのではないでしょうか?

 石川貞清は関ヶ原の合戦では西軍に与しましたが、敗れて領地は没収され(晩年は京都で金融業を営んだそうです)、その後、尾張一国を拝領した家康四男の松平忠吉(清洲城主)、次いで九男の徳川義直(名古屋城主)の有力支城として機能することになります。義直の入封時には家老の成瀬正成が犬山城に3万石を与えられて入城し、以後、現在に至るまで、成瀬家によって城は管理されています。国宝建築の城郭で、しかも私有なんて珍しいですよね。

 城の構造(下図参照)は北から西にかけては木曽川が特大の自然堀で断崖を成しており、攻め上ることは極めて難しい構造です。それでも西側には念を入れて空堀を掘ってあります(現存)。他の堀は埋め立てられて残っていません。東側に川が流れていて「堀だ!」とつい喜んでしまいますが、これは明治時代に市民の生活用に掘ったもので城とは関係ないそうです。それでも東側の急斜面は攻め上るのは難しく、残る南方のみが傾斜も緩やかなため、そちらに向かって防備が固められ、同時に城下町が形成されていきました。

犬山城の略図
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 大天守の聳える城山の最高所は標高約40mです。天守自体の高さは約18m。石垣は天守閣の土台など、最も高い場所でも5mもないと思います。三の丸までの外周は約1280mあったそうです。近世城郭の規模としては小さい方です。

 木曽川に面した水の手門、及び東側の搦め手門は道が細く狭く、軍勢の進退が難しくなっています。特に水の手門から七曲道は城主の脱出路であると考えるべきでしょう。

 三の丸の外側に整備された外郭にも堀はありましたが、城下町全体を囲むようなものではありません。三の丸は堀と土塁のみで、門以外は建造物は築かなかったようです。かつての城の中枢であった三光寺山には物見櫓くらいあったかも知れませんが。

 城山最前部の松の丸には水堀があり、土塁上に二基の櫓が突き出し、堅固な構えを誇っています。

 その松の丸を西側へ回りこんで黒門から城内に入るわけですが、黒門と本丸入り口にあたる鉄門の防備は特に固く、無理に押し通ろうとすれば周囲の曲輪、櫓から弓、鉄砲の攻撃に晒されてしまう構造になっています。

 ただし、攻め手が大軍で犠牲をいとわず、四方から堀も石垣も構わず攻めるような形を取られると、案外、脆いような気がします。

 城主の居館であった御殿は、築城当初は本丸にあったそうですが、後に松の丸に移転したといいます。

 三の丸は、ほぼ真南に向かって大手門が開かれ、東側に搦め手門、周囲は水堀で囲まれていました。二の丸は松の丸、樅の丸、桐の丸、杉の丸の4つに区画され、その中を本丸に至る登城路が通る形になっています。二の丸手前の松の丸に入るには、西側に回りこむ必要があり、南側には二基の二重櫓が突き出て、防備を固めています。ただし、現状は堀も埋め立てられていますし、杉の丸と桐の丸は神社となって階段で繋がっているので、天守閣までは楽に行くことが出来ます。そういう意味では城址としては物足りないかもしれませんね。

 天守閣の形状ですが、平屋の主殿建築の上に見張り台を乗せたような感じで、こういう建築物の成立過程を想像させる姿がとても貴重になっています。こういう構造の天守閣は望楼式天守と呼ばれています。これとは別に名古屋城のような上層と下層のつながりが一体的な建築は、層塔式天守とされています。

 尾張藩の一支城、砦としては十分だとは思いますが、単独で長期の籠城に耐えられるような構造ではないですね。これは関ヶ原の合戦の際、東軍の進撃を見て、城主の石川貞清が籠城を諦めて城を捨てたことからも明らかでしょう。

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木曽川に沿った断崖城に建つ犬山城天守閣。この方向(北東)から見るとまさに要塞ですね。地続きの南側の防備が課題でした。


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天守閣南側角から見上げて。観音開きの小さな窓が渋い(古式な建築であるとされる証左の一つ)。写真中央下やや右寄りに銃丸が一つあります。


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南東側から撮影した天守。最上階の望楼は素木状態で「寄りかかると危険!」の表示があります。


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天守を正面から撮影。右側に突き出た付け櫓や三階にあたる唐破風屋根は後の増築で、築城当初はもっとシンプルな姿でした。もちろん、防衛機能は増したわけですが。ちなみに付け櫓は再建です。


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