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参考文献


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寛永十四年(1637)

主な出来事
10/25:肥前国高来郡島原領でキリシタンが蜂起、松倉家中の代官林兵左衛門らが殺害される。(島原の乱が発生する)(「島原の乱」)
11/9:・豊後目付より、島原でのキリシタン蜂起が江戸に報じられる。
12/3:天草四郎が、原城に入る。

生誕
・保良の方(甲府藩主徳川綱重の側室、六代将軍家宣と松平清武の生母)
閏3/5:千代姫(徳川家光娘、徳川光友室)

死没
1/4:貞心尼(81:直江兼続の妻、お船の方)
4/23:春姫(35:尾張藩主徳川義直室、浅野幸長娘)
11/14:三宅重利(?:肥前唐津藩士、肥後富岡城代、明智秀満の子)



備考、そのほか
10/13:島原周辺で、キリシタン蜂起を促す檄文が村々に配布される。(「島原の乱」)
10/23:肥前有馬村の百姓二人が、益田(天草)四郎よりキリシタンが礼拝する絵像を授与され、村人に布教を行う。
10/24:肥前有馬村で布教活動を行った百姓二人が、島原城にて処刑される。
10/25:肥前国高来郡島原領でキリシタンが蜂起、松倉家中の代官林兵左衛門らが殺害される。(島原の乱が発生する)
10/26:
・島原城から二百人が深江村に出撃し、村の古城址にて一揆と交戦、二名の死者、五名の負傷者を出して帰城する。
・キリシタン一揆が島原城に攻め寄せるも、城方が四人の死者を出しながら、これを退ける。
10/27:
・肥前唐津藩領である肥後国天草にてキリシタンが蜂起する。
・島原藩松倉家家老が豊後目付に一揆蜂起を報告する書を発し、隣接する佐賀藩、熊本藩に助勢を依頼する。
・島原城方が、千々石村に攻め込んで放火する。
10/28:島原の状況探索に派遣された熊本藩士道家七郎右衛門が、島原城に到着する。この時、豊後目付の指示を得られれば、熊本藩として島原藩に加勢する旨を報せる。
10/29:
・富岡城代三宅重利が、熊本藩からの問い合わせに対し、大矢野およびその周辺の村でキリシタンへの立ち帰りがあったと答える。
・富岡城代三宅重利が、本渡に軍勢を派遣する。
10/30:
・熊本藩領三角に、天草の岩屋泊村から73人の男女がキリシタンへの改修を迫られたとして、逃げ込んでくる。
・天草に商売に出向いた八代の商人三人が、キリシタン一揆に遭遇したとして八代に逃げ帰る。
11/1:
・富岡城代三宅重利が、自ら本渡に入り、キリシタン一揆を鎮圧して引き上げる。
・栖本村の庄屋が、上津浦から牟田村にキリシタンの布教へ行こうとした者を撃ち殺す。
11/2:
・島原城からの使者、広瀬吉右衛門が豊後目付牧野成純と林勝正に拝謁し、島原の状況を報告する。これに対して江戸からの指示があるまで城を守るように伝える。
・長崎からの使者が江戸に向かう。
11/6:大坂城代阿部正次、京都所司代板倉重宗が九州の諸大名に武器、米、キリシタンの有馬入りを阻止するように命じる。
11/7:熊本藩が肥後三角の役人に天草での唐津藩と一揆方の戦況について調査、報告するように指示する。
11/9:
・大坂城代阿部正次、京都所司代板倉重宗が、九州の諸大名にそれぞれの領内で島原の一揆に呼応して蜂起する者がいれば、死罪にするように指示する。
・大坂城代阿部正次、京都所司代板倉重宗が、熊本藩に対し、島原の一揆については幕府の指示を待たねばならないが、その他の地域でも同様の動きがあれば、討伐するように指示する。
・豊後目付より、島原でのキリシタン蜂起が江戸に報じられる。
・幕府が上使として板倉重昌、石谷貞清の派遣を決し、島原藩主松倉勝家、豊後府内藩主日根野吉明に帰国が許される。佐賀藩主鍋島勝茂、唐津藩主寺沢堅高には、国元の家老に対し、状況次第で加勢するように指示する。
・佐賀藩士福地六郎右衛門が、島原城に入って得た情報を佐賀藩に報じる。
・将軍徳川家光が、島原でのキリシタン蜂起に際して、九州の諸大名が武家諸法度を尊守した事に満足の意を示す。
11/10:
・熊本藩主細川忠利が、島原でのキリシタン一揆が佐賀、唐津藩の手にも負えない場合、熊本藩も出陣するように将軍家光に命じられた旨を国元に報じる。
・唐津城からの一揆討伐軍が天草に到着する。
・島原藩に籠城していた城兵が、三会村の藩の米蔵からの兵糧搬入に成功する。
11/11:キリシタン一揆方から源大夫なる者が使者として唐津藩軍に決戦に応じるよう申し入れる。藩方が、これを討ち取らんとするも、従者を一人討っただけで、取り逃がす。
11/12:
・島原に続いて天草でもキリシタンが蜂起したと江戸に報じられる。
・熊本藩主細川忠利が、仙台藩主伊達忠宗に書を送り、島原、天草でのキリシタン蜂起を報じ、キリシタンが遠国でも何事かを企てる可能性があるので、国元の監視をするように忠告する。
・三会村で島原城兵が一揆の襲撃を受け、侍五、六人、足軽二十人ほどが討ち死にするという敗戦を喫する。
11/13:
・幕府が豊後目付に使者を発する。
・キリシタン一揆が安徳村を遅い、これを焼き払う。村人の多くが島原城に逃げ込む。
11/14:
・唐津藩富岡城代三宅重利率いる唐津藩の軍勢約二千が、キリシタン一揆四千と交戦の末、討死する。一揆勢の攻撃を受け、唐津藩方が応戦するも、味方の百姓の一部が寝返って在所を放火したので、劣勢を余儀なくされたという。一揆勢は重利とその家来兵右衛門の首を晒す。唐津反兵は富岡城に籠城する。
・栖本の唐津藩代官石原太郎左衛門が、熊本藩に加勢を依頼する。
・幕府が、熊本藩細川家、筑前福岡藩黒田家、肥前福江藩後島家、佐賀藩鍋島家、豊後日出藩木下家、臼杵藩稲葉家、岡藩中川家、日向延岡藩有馬家、筑後柳川藩立花家、久留米藩有馬家に親族の帰国を指示し、肥後人吉藩相良頼寛、日向飫肥藩伊東祐久、高鍋藩秋月種春、肥前平戸藩松浦鎮信、豊後森藩久留島通春には帰国を許す。
11/15:
・長崎ではキリシタンの蜂起が見られない旨が江戸に報じられる。これを受けて長崎奉行榊原職直と馬場利直を現地に派遣する。
・肥前長崎の代官末次茂房が、大坂城代麾下の曾我又左衛門に書を送り、長崎の治安状態に問題がない旨を報じる。
11/17:
・熊本藩内に天草小宮地から落人、4~50人がやって来て、天草でキリシタン一揆と唐津藩の軍勢とが交戦し、唐津藩方が敗れ、大将の三宅重利が討ち死にしたかもしれず、一揆が肥後にも及ぶかもしれないと報じる。
・熊本藩の井口少左衛門が、天草の御領村住人内蔵丞より、三宅重利の討ち死にを知らされる。
11/18:
・キリシタン一揆が、富岡城を攻撃するも、攻略は成らず。
・熊本藩宇土軍奉行が、天草からの落人から得た情報を藩に報じる。
・一揆勢が富岡城を攻撃するも、攻略はならず。
・肥後佐敷に落人が到着する。
11/19:熊本藩の島又左衛門が、肥後三角を訪れた船頭から得た天草の状況を熊本に報じる。
11/21:熊本藩から天草に情報収集のために派遣された蒲田九左衛門、吉岡瀬兵衛が、熊本に状況を報告する。
11/22:一揆方が富岡城を攻撃するも、城方が二の丸に火をかけたのを、味方の功によるものと勘違いして攻勢に出たために、かえって反撃を受けて撤退を余儀なくされる。
11/23:島原から来援していた一揆勢が天草から撤退する。それまで一揆勢に味方していた富岡城周辺の百姓が城方に寝返り、撤退する一揆を追撃する。
11/24:江戸から松倉勝家が帰国する。
11/26:
・幕府の上使、板倉重昌と石谷貞清が豊前小倉に到着し、熊本藩に天草への出陣を命じる。
・熊本藩が、島原からの落人に関して、訴訟を聞く用意がある旨を通知する。
・大矢野、上津浦のキリシタンが島原に逃走する。
11/27:幕府が、松平信綱と戸田氏鉄の島原派遣を決定する。
11/28:
・熊本藩家老松井興長が、筑前山江で幕府の上使と対面し、指示を受ける。
・熊本藩の山路太郎兵衛が、天草四郎が島原に向かったことを報じる。
・大矢野千束島からキリシタンになることを強制された真宗門徒18人が、戸馳島の塩屋村に逃れてくる。
12/1:キリシタンの一揆勢が原城への籠城をはじめる。
12/3:
・天草四郎が、原城に入る。
・板倉重昌、石谷貞清が肥前神代に到着する。
12/4:佐賀藩鍋島勢が島原に到着する。
12/5:板倉重昌、石谷貞清が、島原に到着し、軍令を発する。
12/6:
・細川光利(光尚)が熊本に到着する。
・松倉重利(勝家の弟)を先陣として、幕府軍が島原を出陣する。
12/7:
・熊本藩の軍勢が、幕府の豊後目付と共に天草大矢野に着陣する。
・細川立允(忠利弟)の軍勢が、天草栖本に上陸する。
12/8:
・細川立允の軍勢が河内村に着陣する。
・富岡城の寺沢勢が出撃して、本渡に着陣する。
・松倉勝家が、島原を出陣する。
12/9:
・細川光利が、天草の楠甫に着陣する。
・河内村に在陣する細川立允の軍勢が、上津浦から船で脱出するキリシタンを発見し、細川光利に報じる。
・寺沢勢が島子に着陣する。
・天草の一揆勢2,700余が原城に入る。
・原城を抜け出した老人一人を幕府軍が捕らえ、一揆勢の動向を得る。
12/10:原城下に幕府軍が到着し、これを攻めるも、退けられる。
12/11:細川勢が上津浦に向かって進軍する。
12/12:鍋島勢が原城を攻撃するも、退けられる。
12/17:有馬忠郷率いる久留米藩の軍勢が島原に到着する。
12/20:幕府軍が連携して原城を攻撃するも、攻略はならず。
12/24:
・鍋島勢が、城外に薪を取りに出て来た一揆勢の者一人を捕らえる。
・久留米藩の陣所に一揆方の北有馬村民一人が投降し、場内の様子を報じる。
12/25:福岡半勢が、原城から薪を取りに出てきた七之丞なる者を捕える。
12/29:原城を包囲する幕府軍が軍議を行い、総攻撃を延期して包囲を厳重にする事に力を注ぐように確認する。
12/30:
・板倉重昌の元に、戸田氏鉄より、「籠城しているとはいえ、百姓を相手に自分や松平信綱が到着するまで戦が長引かせては貴殿の面目が立たないだろうから、総攻撃を行うべき」という内容の書状が届く。
・前夜の軍義の結果が覆され、明朝を期しての総攻撃が、本陣から諸藩に命じられる。



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