慶長三年(1598)
主な出来事
1/4:朝鮮、明連合軍が蔚山城を攻撃するも、攻略はならず。更に攻略を諦めて後退する連合軍を日本軍が追撃し、加藤清正らの救援に成功する。(「戦争の日本史16」)
3/15:豊臣秀吉が醍醐寺にて花見を行う。(「北政所と淀殿」)
5/5:太閤豊臣秀吉が、病の床に就く。
7/15:太閤豊臣秀吉が、十一か条に及ぶ覚、遺言状を示す。
8/5:太閤豊臣秀吉が、五大老に遺言状を書く。
8/18:豊臣秀吉が死去する。
8/28:毛利輝元が浅野長政を除く四奉行に起請文を出し、秀頼に対する謀反ではなくても四奉行の意見に同意しない大老がいた場合は輝元が四奉行を支援する旨を誓約する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
10/1:泗川新城の戦い ○島津義弘vs朝鮮、明連合軍●
11/18:露梁津の海戦 ▲島津義弘、立花宗茂、宗義智vs李舜臣、陳璘▲
死没
2月:須田満親(73:上杉家臣)
8/18:豊臣秀吉(62)
11/18:李舜臣(54:朝鮮軍の海将)
備考、その他
1月:太閤豊臣秀吉、蒲生家を家中取締りの不始末によって、会津92万石から宇都宮18万石へ減封する。(「上杉景勝のすべて」)
1/2:西生浦城で諸将が蔚山城救援の部署を定める。(「戦争の日本史16」)
1/3:加藤清正が、明軍との開城交渉を拒否する。
1/4:朝鮮、明連合軍が蔚山城を攻撃するも、攻略はならず。更に攻略を諦めて後退する連合軍を日本軍が追撃する。
1/5:蔚山城で軍議が行われるも、更なる追撃は見送られる。
1/10:太閤豊臣秀吉、上杉景勝に会津120万石への移封を命じる。(「上杉景勝のすべて」)
1/19:加藤清正家臣並河金右衛門が蔚山城周辺の戦死者を捜索し、10,386人を計上する。
2月:明の増援部隊が鴨緑江を越え、朝鮮に到着する。
2/10:直江兼続が、信濃海津、長沼城を石田三成の奉行衆に引き渡すにあたっての覚書を発する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/16:石田三成と直江兼続とが、連署して会津領内での百姓の移動を禁止する通達を出す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3月:豊臣秀吉が、在鮮諸将による戦線縮小案を否定する。黒田長政の梁山城のみが放棄され、長政は亀浦に移るように命じる。
3/4:石田三成と直江兼続とが、連署して蒲生家中の移封による伝馬、人足の徴収に関する指示を出す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/6:上杉景勝、伏見城を発つ。(「上杉景勝のすべて」)
3/18:豊臣秀吉が、山中長俊に朝鮮の各城砦に備蓄する兵糧についての指示を定めた朱印状を発する。
3/24:上杉景勝、会津若松城に入る。
4月:上杉景勝、領内の山路を開き、橋梁を修築する。
4/2:堀秀治、春日山城に入る。
4/9:島津忠恒が朝鮮人子女34人を含めた129人の薩摩への帰国を申請する。
4/15:石田三成が、越後藤井堰の管理についての条書を発する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
5月:豊臣秀吉が在鮮諸将に新たな布陣を命じ、黒田長政の亀浦城を破却し、西生浦に移動させる。
5/5:太閤豊臣秀吉、病の床に就く。
6/16:豊臣秀吉が金剛峯寺金堂の伏見移築の普請現場を検分後、病状が悪化する。(「北政所と淀殿」)
7/1:北政所の奏請で、内侍所にて秀吉の病気平癒のための神楽が奏される。(「北政所と淀殿」)
7/2:豊臣秀吉が二時間ほど気を失い、一時危篤状態に陥る。(「北政所と淀殿」)
7/8:豊臣秀頼のの奏請で、内侍所にて秀吉の病気平癒のための神楽が奏される。(「北政所と淀殿」)
7/中:明、朝鮮の水軍が古今島に合流する。
8月:慶州、星州、全州に明の援軍が到着する。
8/1:豊臣秀吉が、毛利秀元に出雲、石見を宛てがった上、小早川隆景家臣団を編入させ、吉川広家を小早川隆景領の備後三原に移す事を指示する。この裁定に対して輝元が、叔父元康に不快感を表す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/5:太閤豊臣秀吉、五大老に遺言状を書く。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・豊臣秀頼を大坂城に移し、諸大名の妻子も共に大阪へ移す事。
・徳川家康は三年間在京する事。
・五奉行の内、前田玄以と長束正家は伏見に駐在し、残る三人の内、一人を当番として伏見城の留守居を徳川家康と共に務める事。
・残る五奉行の二人は大坂城の留守居を務める事。
8/9:豊臣秀吉が諸大名と対面する。この時、右座に徳川家康、前田利家、伊達政宗、宇喜多秀家、毛利秀元が並び、左座に毛利輝元が座る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/11:五奉行より徳川家康に起請文が提出される。(「北政所と淀殿」)
8/13:吉川広家が、自身が長門一国と小早川隆景遺領の内1万石を拝領し、残る旧隆景領を毛利秀元が入る出雲石見に所領を持つ輝元馬廻衆の所領に宛ててはどうかと提案する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/18:豊臣秀吉が死去する。
8/19:徳川秀忠が、伏見を発ち、江戸に向かう。(「定本常山紀談 上」)
8/23:上杉景勝が、会津から伏見留守居の千坂景親をはじめ、徳川家康、石田三成、増田長盛に秀吉の病状を訪ねる書を発する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/28:毛利輝元が浅野長政を除く四奉行に起請文を出し、秀頼に対する謀反ではなくても四奉行の意見に同意しない大老がいた場合は輝元が四奉行を支援する旨を誓約する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9月:8/1に秀吉によって裁定された毛利氏分国内における秀元への国分と小早川隆景の遺領分配が、白紙化される。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/2:徳川家康と五奉行との対立が表面化し、毛利氏が軍勢二万を上方に投入する準備を行う。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/3:五大老五奉行が、互いに多数派工作を禁じる起請文を取り交わす。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/6:毛利輝元が、小早川隆景遺領の備後三原に家臣の木原元定を派遣する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/10:
・小西行長との和議交渉がまとまらず、全州の明軍が順天城に向けて南下をはじめる。
・毛利輝元が、叔父元康に書を送り、秀元への国分問題について、至急対面の上での相談を求める。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/17:上杉景勝、秀吉の訃報を受けて、会津を発つ。
9/18:明軍が晋州に到着し、周辺の島津勢が泗川新城に撤退する。
9/19:
・明の小西行長捕捉の経略が失敗に終わる。
・明、朝鮮の水軍が順天新城付近に到着し、城への攻撃を開始する。
9/20:徳川秀忠が、上杉景勝に会津移封の祝儀の書状を送る。
9/22:島津義弘が、義久に書を送り、家中の諸氏が互いに起請文などを交わし、徒党を組む事を禁じるように申し入れる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/27:川上忠実の立て籠もる泗川古城が朝鮮、明連合軍に包囲される。川上勢は敵中を突破して泗川新城に辿り着く。
10/1:
・上杉景勝を除く四大老の意を受けた徳永寿昌、宮木豊盛が釜山に到着する。
・泗川新城の戦い ○島津義弘vs朝鮮、明連合軍●
10/2:
・上杉景勝が、伏見の邸に入る。
・朝鮮、明連合軍が順天新城を攻撃するも攻略はならず。
10/3:朝鮮、明連合軍が順天新城を夜襲するも攻略はならず。
10/6:蔚山城を攻撃していた朝鮮、明連合軍が慶州に撤退する。
10/9:順天新城を包囲していた朝鮮、明連合軍が撤退する。
10/16:五大老が脇坂安治に朝鮮への援兵として、来年の渡海を命じる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
10/下:明将劉綖が、順天新城の小西行長に和睦を提案する。
10/25:明軍が小西行長に人質を渡す。
10/28:島津義久が、前田利家邸を訪ねる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
10/30:南海にて順天、泗川、南海、固城の守将が会談し、撤退についての軍議を行う。
11/9:順天城にて帰還を前にした酒宴が行われる。
11/10:島津義久が、徳川家康邸を訪ねる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
11/17:島津義弘が、明軍から人質を受け取るのと引き換えに泗川新城を明け渡して釜山に向かう。
11/18:
・露梁津の海戦 ▲島津義弘、立花宗茂、宗義智vs李舜臣、陳璘▲
・上杉景勝が、山田喜右衛門に書を送り、堀氏に貸し付けた米の返済を促す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
11/19:小西行長が順天新城を脱出する。
11/20:小西行長が巨済島に到着する。
11/23:加藤清正が釜山を発ち、帰国の途につく。
11/24:毛利吉成が釜山を発ち、帰国の途につく。
11/25:
・小西行長、島津義弘が釜山を発ち、帰国の途につく。
・徳川家康が、伏見の増田長盛邸を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
11/26:徳川家康が、伏見の長曽我部盛親邸を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12/1:近衛前久と山岡景友とが、島津義久を訪ね、徳川家康が島津邸に訪問したいとの意向を伝え、義久はこれを受け入れる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12/3:徳川家康が、伏見の新庄直頼邸を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12/6:徳川家康が、伏見の島津義久邸を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12/7:徳川家康が、伏見の細川幽斎邸を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12/10:島津義弘が博多に到着する。
12/11:小西行長、寺沢正成が博多に到着する。
12月下:秀吉の形見分けが行われ、、上杉景勝には中布袋左右芦雁の三幅対、直江兼続は太刀兼光一腰を拝領する。






