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参考文献


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享徳四~康正元年(1455)

主な出来事
1/21~25:足利成氏と上杉勢が武蔵国立河原、分倍川原で合戦し、上杉勢が大敗する。(「戦争の日本史9」)
2/28:邦康親王、後崇光院の猶子として、親王宣下を受ける。(「戦争の日本史8」)
3/26:前管領畠山持国が死去し、家督を子の義夏が継ぐ。
3/28:幕府、新たな関東管領を上杉房顕と定め、京都から関東に下向する。
6/16:駿河守護今川範忠、足利成氏討伐のため、鎌倉に侵攻する。(「武士はなぜ歌を詠むか」)
7/25:康正に改元する。
8/27:足利義政、右近衛大将に補され、日野富子を御台所に定める。
9/24:足利成氏追討の綸旨が下される。

生誕
赤松政則

死没
赤松時勝(23:政則の父)
1/21:上杉憲顕(?:犬懸上杉家)
1/24:上杉顕房(21?:扇谷上杉家)
3/26:畠山持国(58:前管領)
5/12:赤松則尚(31:赤松満祐の甥)



備考、その他
・この年、畠山義夏が義就に改名する。(「戦争の日本史9」)
1/6:相国寺の禅僧瑞渓周鳳が日記に「世に三魔の説あり」とし、幕政混乱の元を今参局、有馬、烏丸の将軍側近三人にあると洛中に落書きが行われたされたことを記す。
1/16:将軍足利義政、信濃国守護小笠原光康に関東への出陣を命じる。
2/7:将軍足利義政、奈良に使者を送り、没落した畠山義富への合力をしないように要請する。
2/29:南朝子孫である相国寺慶雲院主梵勝蔵主と梵沖侍者兄弟が逐電する。
3月:足利成氏、上杉勢を追撃して下総国古河に入る。
4/25:山名教豊が播磨の赤松則尚討伐の為に下向するという情報が京都に流れ、赤松氏を支持する阿波守護細川成之が山名方に合戦を仕掛けるという噂が流れる。
4/27:日野富子が細川上総守の邸を訪ね、細川成之の挙兵を抑える。
4/28:
・山名教豊が、管領細川勝元に見送られて三百騎、数千の軍兵を率いて京都を発ち、但馬国へ下向する。公家の中原師郷も播磨討伐に向かう山名勢を目撃する。(「人物叢書 山名宗全」)
5/12:赤松則尚、備前鹿久居島で山名勢に敗れて自害する。
6/5:関東管領上杉憲顕、越後守護上杉定房と共に関東に入り、上野国三宮原で足利成氏方と合戦に及ぶ。
6/13:畠山義夏、能登守護畠山義忠と共に河内で義富方と合戦に及ぶ。
7/2:畠山義夏、能登守護畠山義忠と共に河内で義富方と合戦に及ぶ。
7/11:将軍義政、畠山義富討伐のため、幕府奉公衆を既に河内に出陣している畠山義夏の援兵として差し向ける。
7/24:上杉勢が栗田城(?)にて足利成氏方と合戦に及ぶ。
7/25:上杉勢が上野国穂積原にて足利成氏方と合戦に及ぶ。
8月:山名教豊が播磨から京都に凱旋する。
8/18:畠山義夏、大和箸尾城を攻略する。
9/9:山名教豊が、母の三十三回忌を栖真寺で催す。(「人物叢書 山名宗全」)
10月:邦康親王、元服して三品、中務卿に叙任される。(「戦争の日本史8」)
10/1:畠山義夏、大和から河内に陣を移し、幕府奉公衆は帰京する。没落した筒井氏、成身院光宣の所領は幕府の御料所とする。
10/13:山名宗全が、備後の山内氏に播磨飾東郡の闕所地を給分として与える。(「人物叢書 山名宗全」)
11/20:畠山義夏、帰京する。
11/26:関東の戦乱により、東大寺領の遠江国蒲御厨に先例を破って人夫役がかけられたと蒲御厨の沙汰人田母木清宗が東大寺に訴える。
12/6:足利成氏、武蔵国騎西城を攻略する。
12/11:下野国天命、只木山の上杉勢が撤退する。
12/13:5月に戦死した赤松則尚の元に一族を派遣していた将軍義政側近の有馬元家が伊勢に遁世して剃髪する。



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