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参考文献


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慶長四年(1599)

主な出来事
1/10:豊臣秀頼が、前田利家の後見を受け、伏見から大坂城に移る。
1/19:四大老五奉行が、徳川家康が伊達、蜂須賀、福嶋氏らと婚姻を交わした件について、詰問の使者を送る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/12:徳川家康と四大老五奉行が、先月発覚した縁談の件について起請文を交わす。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/9:島津忠恒が、伏見で家老伊集院忠棟を斬殺する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/3:前田利家が死去する。この直後、石田三成が加藤清正、福嶋正則、浅野幸長、蜂須賀家政、長岡忠興、黒田長政、藤堂高虎、加藤嘉明、池田輝政らの追討を受け、大坂から伏見に退去する。(「北政所と淀殿」)
閏3/9:石田三成の奉行職解任と隠居が決せられる。
閏3/13:徳川家康が、伏見の邸から伏見城西の丸に移る。
9/27:徳川家康が、大阪城西の丸に入る。

生誕
子々姫(徳川秀忠次女、前田利常室)

死没
堀秀村(43:元近江鎌刃城主)
牧野康成(52:「やすしげ」と読む。徳川家臣、半右衛門「やすしげ」と読む)
3/9:伊集院忠棟(?:島津家臣)
閏3/3:前田利家(62:加賀金沢城主)



備考、その他
・徳川家康六男松平忠輝が、長沢松平家を相続する。(「江戸大名家血族事典」)
1/3:島津義久が、島津義弘、忠恒に書を送り、徳川家康や前田利家との関係について釈明する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
1/10:豊臣秀頼が、前田利家の後見を受け、伏見から大坂城に移る。
1/12:片桐且元邸に宿泊した徳川家康が、伏見城に戻る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
1/19:
・四大老五奉行が、徳川家康が伊達、蜂須賀、福嶋氏らと婚姻を交わした件について、詰問の使者を送る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)この時の使者として、生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴、安国寺恵瓊の四人であったという。(「定本常山紀談 上」)
1/20:前田利家をはじめとする四大老が、三中老を使者として、徳川家康に対して、秀吉の遺言に背いたとして詰問する。(「戦争の日本史17」)
1/23:毛利秀元に出雲、隠岐、伯耆三郡に安芸廿日市1万石を分与する事が決まる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
1/24:山科言経が、徳川家康と四大老五奉行の間に生じた問題について、20日には解決に至ったと日記に記す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
1/25:五大老が連署して細川幽斎に知行宛行状を発する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
1/29:徳川家臣榊原康政が伏見に到着する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/1:石田三成が、島津義久、義弘、忠恒に書を送り、島津以久への加増について使者を通して助言する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/5:徳川家康が、自身を除く四大老五奉行に対し、起請文を提出する。(「上杉景勝のすべて」)
2/12:徳川家康と四大老五奉行が、先月発覚した縁談の件について起請文を交わす。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/14:徳川秀忠が、黒田長政に書を送り、家康支援に奔走した件について謝意を述べる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/20:島津義久が、忠恒に島津氏累代の重宝を譲り渡す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/25:徳川家臣榊原康政が、熱田に到着し、伏見での騒動を知る。(「定本常山紀談 上」)←1月の誤り?
2/26:徳川家臣榊原康政が、膳所に到着、豊臣秀頼の命と称して、勢田の関を封鎖する。(「定本常山紀談 上」)←1月の誤り?
2/27:島津義久が、大坂を発ち、帰国の途につく。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
2/29:
・前田利家が、徳川家康の邸を訪問する。(「戦争の日本史17」)
・徳川家臣榊原康政が、勢田の関を開いて数万の群集と共に京都伏見に入る。(「定本常山紀談 上」)←1月の誤り?
3月:対馬の宗氏が、明将劉鋌に書契を送る。(「戦争の日本史16」)
3/3:島津家臣伊集院忠棟が、進物のために近衛家を訪ねる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/5:島津以久が加増の上、種子島から大隅国垂水へ移封となり、島津忠長が加増される。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/8:宇喜多秀家が、徳川家康に提出する起請文案を作成する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/9:島津忠恒が、伏見で家老伊集院忠棟を斬殺する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/11:徳川家康が、前田利家の邸を訪問する。
3/14:島津義久が帰国する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/15:石田三成が島津義久に書を送り、伊集院忠棟殺害の件について問い合わせる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/25:島津義久が、忠恒に書を送り、種子島氏の加増について石田三成の意見を得て七千石とすると報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/29:石田三成から島津義久に送った書状が、義久の元に届く。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/1:島津義久及び在国する島津家臣団が、石田三成に書を送り、伊集院忠棟の殺害については、忠恒の独断であると答える。また、伊集院忠真に開城を命じたものの三成からの指示であるとして応じない旨を報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/3:前田利家が死去する。この直後、石田三成が加藤清正、福嶋正則、浅野幸長、蜂須賀家政、長岡忠興、黒田長政、藤堂高虎、加藤嘉明、池田輝政らの追討を受け、大坂から伏見に退去する。(「北政所と淀殿」)
閏3/5?:毛利輝元が叔父元康に書を送り、上方情勢を報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
一、石田三成から使者として小西行長と寺沢広高がこちらに参上し、「自身を狙った者はこれを仕損じ、打つ手を失っているので、こちらから仕掛けても良いと考えているので、当家も軍勢を尼崎に布陣し続けてほしい」との要請があった。
一、表向きはそのような意向だが、実際のところ、大坂城を反三成方に押さえられており、当方の出入りは一切出来ない。
一、増田長盛の見通しでは、もはや三成が身を引く他ないとの意見である。
一、このようなわけで、情勢は反三成方優勢である。安国寺恵瓊は山名禅高(豊国)と西笑承兌を使って調略を仕掛けては、どうかとの意見である。ともかく、直接会って相談したい。山名禅高は、昨日こちらに来て、仲裁を引き受ける旨を申しているので、こちらから依頼すれば、成立すると思うが、どのように思われるか、そちらの意見を承りたい。
一、上様(秀吉)の遺言として、徳川家康と上杉景勝との間での縁組が、増田長盛の仲介で成立するようだ。実は賛成出来ない縁談である。景勝は上様の遺言であればとの意向を示したそうだが、とても信用できない。ともかく当方劣勢なので、何とかしなければならない。
一、大坂城には小出秀政と片桐且元らが留守居を務めているが、彼らは徳川方で、このような情勢ではとても頼りにならない。
一、大谷吉継が言うには、当方が下屋敷に移るのは良くない、徳川家康と並ぶ立場を確保しなければならないとの事だ。石田三成には秀元に兵三千をつけて、そちらに差し向けたと伝えたが、吉継とは親しい間柄なので、実際にはそんな事はないと伝えるつもりだ。現状、三成に加担して決起するのは危険なので、勢力を温存しておくべきとの吉継の意向である。

閏3/5:徳川家康が、長岡忠興、蜂須賀家政、福嶋正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長に書を送り、石田三成の伏見入りを報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/6?:毛利輝元が叔父元康に書を送る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
一、石田三成、増田長盛両名共に当方と上杉景勝の意向次第に応じる意見であるとしているが、処分の結果は相手の同意を得ていない。
一、昨晩、山名禅高が来て、徳川家康が仲裁に乗り気であるとし、起請文を交わしても良いとの意向を承ったので、安心して欲しい。
一、当方の下屋敷への移転については、家康も賛成の意を示されたようだが、もう少し相談すべきと考えている。

閏3/7?:毛利輝元が叔父元康に書を送り、未だ石田三成、増田長盛の処分について返答を得られず、元康の申す通り仲裁者(家康?)に頼みいる他ないとの見通しを示し、安国寺恵瓊にもその旨を伝えたとして、移転する下屋敷の普請を急ぐように指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/7:山科言経が、石田三成が4日に伏見に移った旨を日記に記す。
閏3/8?:毛利輝元が、叔父元康に書を送り、石田三成の隠居を報じる。増田長盛については罪は問わないとする。このとき、三成から恵瓊に宛てた書状を読み、輝元は涙を流す。また、徳川家康から、これらの沙汰は内密にするよう指示を受けた旨を伝える。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/8:
・石田三成の子重家が、伏見の徳川家康を訪問する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・島津義弘、忠恒、立花宗茂、寺沢正成が起請文を交わし、この日の談合について決して口外しない事を誓約する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/9:
・伏見城内の邸に立て籠もった石田三成、増田長盛、前田玄以とこれと対峙した黒田長政、蜂須賀家政、加藤清正らとの間に徳川家康が仲裁に入る。
・徳川家康が、福嶋正則、蜂須賀家政、浅野長政に書を送り、石田三成の隠居を報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・毛利輝元が、叔父元康に書を送り、石田三成の隠居と、安国寺恵瓊を三成と家康の元に派遣し、諸事相談させる事を報じると共に、今回の決定について不快感を露にする。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・吉川広家が、家臣の祖式長好に西宮到着を報じ、今夜中に山崎に至るつもりなので、武具、馬具などを用意して鳥羽、伏見まで至るように指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/10:
・山科言経が、日記に早朝石田三成が近江佐和山城に隠遁した事を記す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・吉川広家が、石田三成の隠居を報じ、増田長盛についてはこれまで通りとし、長盛への追求自体なかったこととして扱うと報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/13:毛利家臣満願寺春盛が、厳島神社の棚守に書を送り、毛利輝元と上杉景勝の奔走によって戦乱が回避された事を吉事として報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
閏3/19:五大老が連署して蜂須賀家政、黒田長政に対し、蔚山城の合戦における行動を落ち度とはしない旨を伝え、先に没収した所領を返還する。杵築城に移封された早川長政にも府内城が返還される。
閏3/21:徳川家康と毛利輝元が起請文を交わす。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4月:島津義久が、忠恒から島津氏累代の重物を取り戻す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/2:徳川家康が、島津義弘、忠恒に起請文を提出する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/14:島津義弘が、忠恒に書を送り、伊集院忠真との問題を才覚をもって解決するように指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/15:島津義弘が、種子島久時に書を送り、島津忠恒が伊集院忠棟殺害後、高雄に逼塞していたが、前田玄以、長束正家、増田長盛が相談して寺沢正成、小西行長、立花宗茂を迎えにやって、伏見に帰宅させる事が出来たと報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/16:豊国社の仮殿が完成する。(「北政所と淀殿」)
4/17:豊臣秀吉に「豊国大明神」の神号が贈られる。(「北政所と淀殿」)
4/18:豊国社の正遷宮が行われる。(「北政所と淀殿」)
4/14:島津義弘が、忠恒に書を送り、伊集院忠真との問題を才覚をもって解決するように指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/24:島津義久が、伊集院忠真の領内に侵攻する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/25:島津義久が、忠恒に書を送る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
5/8:島津忠恒が、伊集院久治に書を送り、伊集院忠真について、まずは講話の道を探ってから兵を出すべきとであると指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
5/9:島津義弘が忠恒に書を送り、伊集院忠真との交戦について、徳川家康が情報を欲しがっていると報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
5/23:島津義久が、忠恒に書を送り、忠恒と談合していては物事が進まないので、忠恒自身が現地まで出馬するように要請する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
6月:
・毛利秀元が給地配分について、徳川家康に仲介を依頼した件をなかった事とする起請文を輝元に提出する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・大友吉統が赦免され、常陸から上洛の途につく。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
6/15:毛利秀元への給地宛行が、長門一国に周防吉敷郡に安芸、周防、備後に散在する秀元の父元清の遺領に決定する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
6/18:伊集院忠真が、川上忠智に書を送り、開城交渉が成り立たなかったのは上方にいる島津義弘、忠恒の意向を得てからと言う条件を(義久?に)拒否されたためであると伝える。また、忠真の元に島津義弘からの書状が到来し、懇ろな言葉を頂いたと報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・伊集院忠真が、島津義弘に書を送り、仲裁を依頼する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
6/末:この頃、宗義智、柳川調信が明軍、朝鮮政府双方に宛てて、朝鮮人被虜人と共に書契を発する。
7月:
・スペインのマニラ総督テリョが、スペイン国王に対し、日本軍のルソン侵攻への脅威を報告する。(「雑兵たちの戦場」)
・伏見で浅野長政と吉川広家とが、喧嘩沙汰に及ぶ。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・上杉景勝が、佐渡に仕置改を発布する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・徳川家の使者として、山口直友が、薩摩に下向し、伊集院忠真の乱の調停を試みるも、失敗する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
7/5:島津義弘が、忠恒に書を送り、徳川家康が、伊集院忠真討伐について容認する意向を示す。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
7/28:上杉景勝が、大坂城で豊臣秀頼、徳川家康に帰国の挨拶をする。
8月:
・毛利家臣福原広俊が、毛利秀元に対し、給地配分の件について諫言する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・前田利長が、金沢に帰国する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/3:上杉景勝が、伏見を発つ。
8/6:
・島津義弘が、伊集院忠真に書を送り、忠真の身上について尽力すると伝える。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・島津義弘が伊東祐兵に書を送り、伊集院忠真について、徳川家康から征伐軍の派遣を申し入れられたが、これを断ったと報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/10:
・上杉景勝が、会津に帰国する。(「上杉景勝のすべて」)
・徳川秀忠が、上杉景勝に書を送る。
8/18:豊臣秀吉の一周忌のため、豊国社に北政所が社参する。(「北政所と淀殿」)
9/1:島津義弘が、忠恒に書を送り、伊集院忠真討伐軍が上方から派遣された場合に備えておくように指示する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/7:徳川家康が伏見を発ち、大坂城下の増田長盛の屋敷に入る。深夜、増田長盛が徳川家康の宿所を訪ね、家康暗殺の謀議の噂を報じる。(「北政所と淀殿」)
9/9:徳川家康が大坂城の豊臣秀頼に重陽の祝いの挨拶を述べる。
9/12:徳川家康が大坂城下の石田正澄の屋敷に入る。(「北政所と淀殿」)
9/14:徳川家康が、上杉景勝からの近況報告に対し、返書を送る。
9/26:北政所が、大坂城西の丸を出て京都に向かう。(「北政所と淀殿」)
9/27:徳川家康が、大坂城西の丸に入る。
10月:徳川家康が、島津氏と伊集院忠真の対立に関して、寺沢正成を派遣して調停を図る。
10/3:徳川家康が大坂城西の丸に諸将を集め、加賀の前田利長征伐を命じる。
10/17:徳川家康が、最上義光に書を送り、上方の近況を報じる。(「北政所と淀殿」)
10/22:徳川家康が、上杉景勝からの近況報告に対し、返書を送る。
11/6:伊集院忠真が、上方から調停に入った寺沢正成に対し、他家への仕官の仲介を依頼する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
12月:
・島津氏と伊集院忠真の仲介の為に薩摩に入った寺沢正成が、講和の成立をみないまま、上方に引き上げる。入れ替わりに徳川家臣山口直友が薩摩に入る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
・徳川家康が島津義弘に対して、明国の人質である芽国科の返還を命じる。



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