文禄四年(1595)
主な出来事
7月:太閤豊臣秀吉、病床に付く。上杉景勝が見舞いのために上洛する。(「上杉景勝のすべて」)
7/3:豊臣秀吉と、関白豊臣秀次との対立が表面化、秀吉が謀反の疑いで、聚楽第へ詰問の使者を送り、秀次の伏見出頭を命じる。
7/8:豊臣秀次が伏見城に出頭するも、秀吉との面会も叶わずまま、関白、左大臣の官職を剥奪され、高野山行きを命じられる。
7/15:豊臣秀吉の使者として、福島正則、福原長堯、池田秀雄らが高野山に派遣され、秀次に切腹を命じる。同日、秀次は切腹して果てる。
8/2:関白豊臣秀次の妻子39名が、三条河原にて斬首される。
8/3:徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景、上杉景勝が、連署して公家武家の法を制定する。
8/19:但馬出石城主前野長康、景定親子が切腹して果てる。
9/17:伏見城にて、徳川秀忠と小督姫の婚儀が行われる。(「北政所と淀殿」)
生誕
10/18:毛利秀就(輝元の嫡子、萩藩祖)
死没
木曽義昌(55)、渡瀬繁詮(41:豊臣秀次家臣)、明石則実(?:豊臣秀次家臣)、一柳直秀(?:可遊、伊勢桑名城主)
2/7:蒲生氏郷(40:会津若松城主)
7月:服部一忠(?:伊勢松阪城主)、
7/15:豊臣秀次(28:関白)、木村重茲(?:山城淀城主)、木村高成(?:重茲の子)、
8/19:前野長康(68:但馬出石城主)、前野景定(?:長康の子)
備考、その他
・上杉景勝が、越後国内の検地を行う。(「上杉景勝のすべて」)
1月:太閤豊臣秀吉、越後、佐渡の金山支配を上杉景勝に委任する。
1/12:菊亭晴季が上杉景勝に権中納言の序列について、筆頭:宇喜多秀家~豊臣秀保~豊臣秀俊~上杉景勝~毛利輝元~前田利家の順であるとして、内密に知らせる。
1/15:関白豊臣秀次の名護屋出陣を軸とした朝鮮渡海計画が発令される。(「戦争の日本史16」)
2/4:明国の兵部省が上杉景勝を都督同知に任ずる書を発給する。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
2/24:上杉景勝、帰国のため、京を発つ。
3月:島津領内の惣国検地が終了する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/2:後陽成天皇が、豊臣秀頼の伏見移徒の祝儀として、剣と馬を贈る。(「北政所と淀殿」)
3/5:上杉景勝が、春日山城に帰る。
4/6:石田三成家臣安宅秀安が、島津義弘に書を送り、検地によって30万石もの計上が成されたものの義久、義弘の指導力の無さ故、年貢の収入が上がらないとして、このままでは取り次ぎは出来ないと伝える。同時に、石田三成が島津領内の検地について豊臣秀吉に報告し、あわせて島津義弘の帰国を願い出て了承されたことを報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/下旬:明の沈惟敬が釜山において、小西行長と会談する。
4/21:淀殿が、母お市の方と養父柴田勝家の十三回忌を行う。(「北政所と淀殿」)
5/10:島津義弘が、朝鮮から帰国の途に着く。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
5/22:豊臣秀吉が、小西行長と寺沢正成に宛てて明、朝鮮との和睦に関する条目を発する。
5/23:豊臣秀吉が在鮮諸将に朱印状を発し、釜山をはじめとする六城を除く城郭の破却を命じる。
6/12:島津義弘が上洛する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
6/17:石田三成家臣安宅秀安が、伊集院忠棟らに宛てて覚え書きを提出し、島津氏の領内仕置についての問題点を列記する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
7月:太閤豊臣秀吉、病床に付く。上杉景勝が見舞いのために上洛する。(「上杉景勝のすべて」)
7/3:豊臣秀吉と、関白豊臣秀次との対立が表面化、秀吉が謀反の疑いで、聚楽第へ詰問の使者を送り、秀次の伏見出頭を命じる。
7/4:小西行長と寺沢正成が、肥後の相良頼房に対して、さらった朝鮮人の返還を命じる。(「雑兵たちの戦場」)
7/8:豊臣秀次が伏見城に出頭するも、秀吉との面会も叶わずまま、関白、左大臣の官職を剥奪され、高野山行きを命じられる。
7/10:豊臣秀吉が、関白秀次の追放を報じる朱印状を在鮮諸将に送る。
7/12:徳川家康、毛利輝元、小早川隆景が起請文を提出し、東国を家康、西国を輝元と隆景の監督によって秀吉の法度、置目を尊守して統治し、家康と輝元は常時在京を基本とし、暇をもらって下国する際は、いずれかが必ず在京する旨を誓約する。
7/15:豊臣秀吉の使者として、福島正則、福原長堯、池田秀雄らが高野山に派遣され、秀次に切腹を命じる。同日、秀次は切腹して果てる。
7/17:島津義弘が京都を発ち、帰国の途につく。共に帰国を希望した兄義久には帰国の許可が下されず、上方に残る。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
7/20:前田利家が、豊臣秀吉に起請文を提出し、秀頼の守役を務める旨を誓う。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/2:関白豊臣秀次の妻子39名が、三条河原にて斬首される。
8/3:
・徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景、上杉景勝が、連署して公家武家の法を制定する。
一、大名同士の縁組は秀吉の許可を得る事
一、大小名が誓詞を交わすなどして徒党を組む事を禁ずる
一、喧嘩口論に及んだ際は、堪忍した側に理ありとする事
一、大名同士が対立に及んだ際は双方を召し寄せ、事実を究明する事
一、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、小早川隆景と古公家、長老、出世衆の乗物使用を許可する。これ以外は例え大名であっても騎馬を使う事。ただし、年齢五十歳以上と病気の者は路次一里以内の駕籠の使用を許す。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
・島津義弘が、忠恒に書を送り、義弘に続いて伊集院忠棟、安宅秀安が薩摩に下向する旨を報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
8/4:釜山に関白秀次の追放を報じる秀吉の朱印状が届く。
8/20:在鮮諸将が連署して豊臣秀頼に忠誠を誓う起請文を認める。
9月:明からの使節団が漢城を発ち、釜山に向かう。
9/3:伊集院忠棟らが、石田三成との協議の上、根占重虎に知行を宛てがう。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
9/17:伏見城にて、徳川秀忠と小督姫の婚儀が行われる。(「北政所と淀殿」)
10月:島津義久に帰国が許される。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
10/6:小西家臣瀧重時が、島津義弘に朝鮮半島の城郭の在番体制について報じる。
10/11:明の副使楊方亨が釜山に到着する。
11月:直江兼続が、伏見の上杉邸を竣工させる。
11/22:明の正使李宗城が釜山の小西行長の陣所に入る。






