天正十四年(1586)
主な出来事
5/14:徳川家康と豊臣秀吉の妹旭姫の婚儀が浜松城で行われる。(「戦争と日本史15」)
10/27:徳川家康が大坂城で豊臣秀吉に拝謁し、臣従を誓う。
11月:正親町天皇が和仁親王に譲位し、後陽成天皇が即位する。
12/12:戸次川の合戦 ○島津家久vs大友義統、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保●
12/16:秀吉、近衛龍山の娘を養女とし、後陽成天皇の女御として入内させる。
12/19:秀吉、太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る。
死没
1月:佐野宗綱(31:下野唐沢山城主)
2月:高森惟直(?:阿蘇家臣)
7月:川上忠堅(?:島津家臣)、筑紫晴門(?:広門弟)
7/27:高橋紹運(39:大友家臣、筑前岩屋城主)
7/24:誠仁親王(35:正親町天皇の第五皇子)
11/15:吉川元春(57:毛利元就次男)
11/21:蘆名亀王丸(3:会津蘆名氏当主)
12/10:利光宗魚(?:大友家臣、豊後鶴賀城主)
12/12:長宗我部信親(23:元親の嫡子)、十河存保(34:讃岐十河城主)
備考、その他
・豊臣秀吉が、大坂のキリシタン教会を訪問する。
・常陸の鹿島氏当主の通晴が一族の貞信、清秀兄弟によって打倒される。同時に国分氏当主胤政が下総矢作城に復帰する。(「戦争と日本史10」)
・石田三成が堺奉行に就任し、大谷吉継がその補佐役に任じられる。(「歴史読本2009年7月号」)
1月:
・島津家中の談合で籤の結果に基づいて義久が日向口、忠平(義弘)が肥後口から豊後攻めを実施し、筑前秋月、肥前筑紫、龍造寺氏らから人質を取る事を決める。また、前年の関白秀吉からの書については副状を発した細川藤孝に返書を認める事とし、鎌田政広を使者として大坂に遣わすこととする。(「戦争の日本史12」)
・下野唐沢山城主佐野宗綱が北條方の長尾勢との合戦で討死する。(「戦争と日本史10」)
1/19:関白豊臣秀吉が、分国内に十一ヶ条の掟を発する。(「雑兵たちの戦場」)
1/23:島津家臣上井覚兼が、その日記の中で、羽柴秀吉及び、彼を支援する朝廷を「由来無き仁…(中略)関白殿扱いの返書は笑止の由…(中略)故無き仁に関白を御免の事、只、綸言の軽々にこそ候へ」と批判する。(「戦争と日本史15」)
2月:
・阿蘇家臣の高森惟直が大友氏に内通し、島津勢に討たれる。
2/2:上杉景勝、漢和連句百韻会を催す。
2/21:
・豊臣秀吉が京都に聚楽第の築城工事を開始する。(「戦争と日本史15」)
・本願寺坊官宇野主水が、その日記の中で大坂城下での噂として、羽柴秀吉小姓の大谷紀之介(吉継)に悪瘡が出来、千人の血を舐めれば直るとして、城下での千人斬りを命じたと書き記す。(「歴史読本2009年7月号」)
3月:肥前勝尾城の筑紫広門が島津氏への人質提出を拒否し、大友氏に味方する旨を表明する。
3/16:ルイス・フロイスらの南蛮人一行、大坂城で秀吉に対面する。秀吉、明国征服に関して、南蛮船の支援を要請。南蛮人からは九州への秀吉の出馬を要請する。
4月:北條勢が、下野皆川城を攻撃し、城主皆川広照はこれに屈服して講和を結ぶ。
4/17:上杉景勝が家臣の色部長実に上洛のために越後を発つことを知らせる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
4/19:豊臣秀吉が佐竹義重に宛て、伊達氏と芦名氏の構想について仲介するように指示する書状を上杉景勝を通じて発する(佐竹氏の下には届かず?)。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
5月:
・豊臣秀吉が豊後の大友宗麟と大坂城で対面し、島津征伐の要請を受ける。
・島津氏が派遣した使者、鎌田政広が大坂から薩摩に帰国する。
・陸奥中村城の相馬義胤の仲介で、佐竹義重、畠山義継らと伊達政宗の和睦が成立し、二本松城が開城して伊達政宗に引き渡される。(「戦争と日本史10」)
5/20:上杉景勝、上洛のため、春日山城を発つ。(「上杉景勝のすべて」)
5/25:羽柴秀吉が陸奥白河氏に書を送り、徳川家康を赦免した事と、関東静謐に乗り出す意向を示す。
6月:島津氏が豊後攻めの準備に取り掛かる。
6/7:
・上杉景勝、上洛し、本国寺を宿所とする。
・島津氏が評定を行い、大友宗麟への攻撃を決定する。
6/12:上杉景勝が大坂に到着する。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
6/14:上杉景勝が大坂城で豊臣秀吉に謁見し、臣下の礼を取る。(「上杉景勝のすべて」)
6/16:上杉景勝が豊臣秀吉から朝の茶の湯に招かれ、その後、直江兼続、千坂景親を招いて千利休の手前で茶が振る舞われる。夜に入って豊臣秀長の宴に招かれる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
6/18:
・上杉景勝が、石清水八幡宮を参拝する。
・島津義久が、鹿児島を出陣する。
6/22:上杉景勝が参内して従四位下、左近衛権少将に任じられる。
6/23:上杉景勝が聚楽第に出仕して、秀吉に帰国の挨拶をする。秀吉、景勝に佐渡討伐を命じる。
6/24:上杉景勝、帰国のため、京都を発つ。
7月上旬:島津勢が筑紫氏の勝尾城への攻撃を開始する。島津家臣川上忠堅と筑紫晴門(広門弟)が一騎打ちを行い相打ちとなった他、島津忠隣が負傷する。
7/2:島津義久が肥後八代に入る。
7/6:
・上杉景勝、春日山城に帰る。
・島津勢が筑紫方の肥前鷹取城を攻略する。
7/10:羽柴秀吉が島津氏討伐を決定する。
7/11:筑紫広門が勝尾城を出て島津軍に降伏する。
7/12:
・島津軍が筑前天拝山を本陣とする。
・上井覚兼率いる島津軍の日向国衆が肥後に進撃する途中、略奪した女童を連行する味方の雑兵と行き会い、進軍に支障を来たす有様となる。
7/13:島津勢が筑前岩屋城を包囲し、城将高橋紹雲に使僧を送って降伏を勧告するも拒絶される。
7/14:島津勢が筑前岩屋城への攻撃を開始する。
7/27:島津軍が筑前岩屋城を攻略する。城将高橋紹運以下、城兵全員が玉砕する。島津軍も上井覚兼が投石を受けた末顔面に鉄砲を受けて負傷した他、甚大な損害を受ける。(「戦争の日本史12」)
8月:
・北條氏が分国内の諸氏から人質の徴収をはじめる。
8/3:豊臣秀吉が上杉景勝に上洛と使者の到来を労う書を送る。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
8/6:島津軍が宝満城を攻略する。
8/9:上杉景勝、新発田重家討伐のため、春日山城を出陣する。
8/16:筑前立花山城内の城将の一人から、所領と引き換えに立花統虎を討ち取るとの連絡が島津方に示される。
8/18:上杉景勝が、笠堀に布陣する。
8/23:島津軍が立花山城に降伏勧告を行うも、拒絶される。
8/24:島津勢が筑前から撤退を開始する。
8/25:立花統虎が島津勢を追撃し、高鳥居城を攻略する。
8/26:上杉景勝が、五十公野城下を放火する。
9月:秀吉配下の仙石、長宗我部、十河氏ら四国勢が豊後に入る。
9/25:豊臣秀吉が上杉景勝に書を送る。石田三成と増田長盛が副状を付ける。
一、新発田重家討伐について、木村清久を派遣する事。
一、真田昌幸を表裏者と断じるも、征伐を中止した事。
一、関東と奥羽の諸将の秀吉への取次ぎを心掛ける事。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
9/26:徳川家で豊臣家への対応に関する評定が行われ、家康の上洛が決定される。(「戦争と日本史15」)
9/27:島津義久が、石田三成に書を送り、豊臣政権との関係について指南を依頼する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
10月:
・上杉景勝、沼垂町の嶋垣隼人佑、宗兵衛に定書を出し、町屋敷割を命じ、三年間の地子銭免除と漁役の半減を定める。
・毛利、吉川、小早川勢が豊前に上陸する。
10/3:黒田孝高が豊前に入る。
10/4:毛利軍が豊前小倉城を攻略する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
10/18:岡崎城に豊臣秀吉の母、大政所が到着する。
10/20:徳川家康が岡崎城を発ち、上洛の途につく。
10/22:島津義弘が肥後から豊後に侵攻する。
10/24:島津義弘が津賀牟礼城を攻略する。
10/26:徳川家康が大坂に到着し、豊臣秀長の邸に泊まる。
10/27:徳川家康が大坂城で豊臣秀吉に拝謁し、臣従を誓う。
11月:
・毛利軍が豊前宇留津城を攻略する。城兵千余の首を刎ね、その他非戦闘員も残らず磔に処す。
・正親町天皇が和仁親王に譲位し、後陽成天皇が即位する。
・この頃、北條氏忠が下野唐沢山城に入り、佐野宗綱の後継者となる。
・北條氏が分国内に動員をかける。
11/4:豊臣秀吉、上杉景勝に徳川家康への征伐を中止し、新発田重家討伐を命じる。
11/5:豊前小倉の陣中で吉川元春が死去する。
11/15:
・島津家久が日向から豊後に侵攻する。
・徳川家康が、北條氏政に対して豊臣秀吉が示した関東惣無事令についての添状を送る。
11/21:会津黒川城主蘆名亀王丸が3歳で死去し、後継者を佐竹義重の子である白河義広とする。
12月:毛利軍が香春岳城を攻略する。城主高橋元種は降伏する。
12/3:豊臣秀吉が、奥両国惣無事令を発し、下野の多賀谷重経、陸奥の片倉景綱、白土右馬助らに送る。
12/4:徳川家康が、居城を浜松から駿府に移す。
12/6:島津家久が豊後鶴賀城を攻撃する。
12/12:戸次川の合戦 ○島津家久vs大友義統、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保●
12/13:島津家久が豊後府内城を攻略する。
12/16:秀吉、近衛龍山の娘を養女とし、後陽成天皇の女御として入内させる。
12/19:秀吉、太政大臣に任官し、豊臣姓を賜る。
12/24:島津義弘が豊後朽網城に入る。


