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参考文献


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天正十年(1582)

主な出来事
3/11:武田勝頼、天目山田野にて自刃し、甲斐武田氏が滅亡する。
5/29:織田信長が入京する。
6/2:本能寺の変 ○明智光秀vs織田信長、信忠●
6/13:山崎の合戦 ○羽柴秀吉vs明智光秀●
6/18、19:神流川の合戦 ○北條氏政、氏直vs瀧川一益●
6/27:清洲会議で織田信長の後継者を嫡孫三法師とする。
8/28:中富川の合戦 ○長宗我部元親vs十河存保●


死没
1/9:宇喜多直家(53:備前岡山城主)
3月:長坂虎房(長釣斎光堅:甲斐武田家臣)
3/2:仁科盛信(26:信玄五男)
3/7:武田信廉(51:信玄弟)
3/11:武田勝頼(37)、信勝(15)、跡部勝資(35?:武田家臣)
3/24:小山田信茂(43:武田家臣)
6/2:織田信長(49)、信忠(26)、森成利(18)、長隆(17)、長氏(16)
6/3:山本寺景長(?:上杉家臣)、吉江宗信(78:上杉家臣)、安部政吉(?:上杉家臣)、石口広宗(?:上杉家臣)、若林家長(?:上杉家臣)、亀田長乗(?:上杉家臣)、藤丸勝俊(?:上杉家臣)、蓼沼泰重(?:上杉家臣)、寺崎長資(?:上杉家臣)、吉江信景(?:上杉家臣)、竹俣慶綱(59:上杉家臣)、中条景泰(25:上杉家臣)
6/4:清水宗治(36:備中高松城主)
6/8:安藤守就(80:美濃北方城主)
6/14:明智光秀(55?)
6/24:温井景隆(51:能登国人)
9月:新開道善(?:阿波牛岐城主)
10/8:細川真之(45:阿波茨ヶ岡城主)
10/27:江馬輝盛(飛騨国人)
11月:一宮成祐(?:阿波一宮城主)



備考、その他
・羽柴秀吉は武田勝頼の滅亡を知ると、
「惜しい者を殺した。自分が陣中にあれば、お諫めして勝頼に甲斐信濃を与えて関東への先陣とさせ、東国を一気に平らげたものを」
と繰り返し悔やんだという。(「定本常山紀談 上」)
・武田勝頼を討った後、信長は武田館跡へ馬で乗り入れようとしたものの、馬が進まないので引き返したという。その後、徳川家康が訪れた際、家康は最初から馬を下りたという。(「定本常山紀談 上」)
・武田勝頼父子の遺体は信長を恐れて、収める者がいなかったが、広厳院なる禅僧が引き取り、後徳川家康が景徳院を建立した。(「定本常山紀談 上」)
1月:
・安心院麟生が豊前龍王城に立て籠もり、大友氏に反旗を翻す。(「戦争の日本史12」)
・紀伊雑賀で土橋若太夫が鈴木孫一に討たれる。(「戦争と日本史14」)
2月:
・織田信長が紀伊での鈴木孫一と土橋氏の抗争に関連して、家臣の野々村三十郎を本願寺門跡警固のために派遣する。
・北條氏邦が西上野へ、北條氏規、太田源五郎らが駿河に侵攻し、戸倉、沼津、深沢城を攻略する。(「戦争と日本史10」)
2/1:信濃の木曽義昌が遠山友忠を介して織田信長に誼を通じる。(「戦争の日本史13」)
2/3:森長可、団忠正らの織田軍先鋒が信濃に向けて岐阜を出陣する。
2/9:織田信長が近国の諸将に甲斐信濃への出陣を命じる。
2/12:織田信忠が岐阜を出陣する。
2/14:織田信忠が美濃岩村に到着する。信濃の小笠原信嶺が降伏する。織田軍先鋒は飯田城を攻略する。
2/15:織田信長が滝川一益に織田信忠の急な進撃を戒めるよう指示する。
2/16:武田方今福昌和の軍勢が信濃鳥居峠に布陣するも、織田軍に撃破される。織田信忠は信濃平谷に布陣する。
2/17:織田信忠が飯田城に到着する。大島城にあった武田軍は退散する。
2/19:上杉景勝、新発田重家討伐のため、春日山城を発つ。
2/22:徳川家康が駿河安倍郡に禁制を発し、人取りを禁じる。(「雑兵たちの戦場」)
2/23:織田信長が川尻秀隆に織田信忠の急な進撃を戒めるよう指示する。
2/28:織田信長が川尻秀隆に自らの着陣を前にしての急な進撃を戒めるよう指示する。
3月:
・徳川家康、依田信蕃の立て篭もる駿河田中城を包囲し、
「武田家臣は皆主家を背いており、滅亡は間違いない。直ちに開城せよ」
と降伏を勧告する。信蕃は「武田家臣の書をもって真偽を計りたい」と答えたため、家康は穴山梅雪の書を送る。これを見て信蕃は城を明渡したため、新たに所領を宛がおうとするも、信蕃、
「勝頼の存亡の仔細を承るまでは受け入れられない」
と答え、信州佐久に帰る。結局、勝頼が滅び、その後の信長の残党狩りの厳しさから家康に密かに匿われた。(「定本常山紀談 上」)
・織田信忠、甲斐の恵林寺が六角承禎らを匿っている事を知り、再三差し出すよう命じたにも関わらず、これに応じない事に激怒、
「累代の檀家である勝頼を匿いもせず、遺骨をも収めようともしないくせに縁のない者を隠すとは」
と寺を包囲したものの、承禎らは既に逃走していた。このため、織田軍は恵林寺を焼き討ち、快川和尚をはじめとする高僧を殺害する。
一説に織田信長はかつて岐阜に快川和尚を招こうとしものの、快川和尚は今川氏から武田信玄に招かれたために断られた上、信玄死去の際、その真偽を尋ねた際にも無視されて恨んでいたという。(「定本常山紀談 上」)
・伊予来島の村上通昌が羽柴秀吉に内通し、毛利氏に反旗を翻す。
・安芸厳島から雑人たちの退去する動きが現れる。
・薩摩島津氏が肥後相良忠房領の内、球磨郡のみを安堵し、芦北、八代郡を収公する。
・上杉景勝に呼応した越中国人小島職鎮が神保長住を追い、富山城を占拠するも、ほどなく柴田勝家らに奪回される。
・信濃上田城主、真田昌幸、上野箕輪城の内藤昌月らが、北條氏政に服属する。
・北條氏政が、伊豆三島大社に織田家との婚姻による関東制圧を祈願した願文を捧げる。
3/1:織田信忠率いる織田軍が信濃高遠城を包囲する。
3/2:
・織田信忠が高遠城を攻略する。
この時、森家家臣各務兵庫は狭間から城内を覗き込んで群がる敵中に飛び込み、功を挙げたという。
また、戸田重政は高遠城に一番乗りの筈が、母衣が木戸に引っかかり、尻もちをついた間に織田信忠の小姓、山口小弁、佐々清蔵に先を越されたという。戦後、織田信長は感状と刀を二人に与え、特に佐々には
「汝の武功は大功を挙げた成政の従兄弟なれば」
と声をかけたという。(「定本常山紀談 上」)
・武田勝頼の元に高遠城落城の報が届く。
・武田勝頼の側近、漆戸虎秀らが上杉景勝側近の長井昌秀に援軍要請の書を発する。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
3/3:武田勝頼が新付城を退去する。その際、館に火を放ち、人質の子女を殺害する。
3/4:羽柴秀吉が、宇喜多家臣明石行雄、宇垣宗寿、戸川秀安、長船貞親、岡家利に書を発し、備前へ向けての出兵を報じる。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
3/5:織田信長が武田討伐のため、安土を出陣する。
3/6:武田勝頼が上杉景勝に援兵を依頼する。上杉勢、信濃長沼に出兵する。
3/7:
・織田信長が岐阜城に到着する。
・織田信忠が諏訪を経て甲斐府中に到着する。降伏した武田信廉の殺害を森長可に命じ、長可は家来の各務兵庫と武前采女を討手として庭に誘い出して斬り殺したという。(「定本常山紀談 上」)
3/11:
・武田勝頼、天目山田野にて自刃し、甲斐武田氏が滅亡する。
・武田勝頼を討った際、果たして誰を討ったものかわからず、首を溝に打ち捨てておいたものの、百姓が平伏して礼をする様子から発覚した。(「定本常山紀談 上」)
・柴田勝家率いる織田軍が越中富山城を攻略、魚津城を包囲する。(「上杉景勝のすべて」)
・織田信長が岩村城に到着する。
3/13:織田信長が信濃に入る。
3/14:織田信長、浪合にて武田勝頼、信勝親子の首実検を行う。
*織田信長、届けられた勝頼の首に対し、
「父親の非義非道ゆえ、天の責めに逃れられず、このようになった。信玄は京に赴く志があったという。汝の首を京都に送り、女童にさらしてやろう」
と罵倒して後、首を家康の元に送る。家康は床几を下りて、
「若さ故に思慮に欠け、このような結果になられたか」
と丁寧に接した事から、甲斐信濃の人々の信頼を得たという。
又、滝川荘左衛門なる使番が勝頼の首を織田信長に届けた際、信長はこれに様々罵倒した末に杖で二度突き、足蹴にした。この様子を見た荘左衛門は
「織田家の運命も最早これまで」
と口にしたのを見た蜂須賀家の稲田丹波は滝川家没落後、荘左衛門を召し出したという。(「定本常山紀談 上」)
3/15:羽柴秀吉が姫路城を出陣する。
3/19:織田信長が諏訪に到着する。徳川家康が諏訪の信長本陣を訪ねる。
3/21:北條氏政の使者が諏訪の織田信長本陣を訪ねる。
3/23:織田信長が滝川一益に武田攻めの戦功として上野一国と信濃二郡を与える。
3/26:織田信長が信忠に梨地蒔の刀を贈る。(尾張・織田一族)
3/末:瀧川一益が上野箕輪城に入る。
4月:
・安芸厳島の給人、社家衆が、女性や子供を対岸の石道に退去させ、厳島神社の神物を桜尾城に移す。
・北條氏政が雉五百余を織田信長に進上する。
・常陸真壁城主真壁氏幹が、織田信長側近菅屋長頼、寺田善右衛門を介して、信長に栗毛の馬を進上する。
・備中宮内村が羽柴秀吉勢より、敵への関与を疑われたために夜間の村への人の出入りを禁じられる。(「雑兵たちの戦場」)
4/1:上条宜順が直江兼続に上杉景勝への意見の取次ぎを求める。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
4/2:織田信長が諏訪を発ち、着陣の途につく。
4/4:羽柴秀吉が備前岡山城に入る。(「戦争と日本史15」)
4/10:宇喜多家臣宇垣宗寿、戸川秀安、長船貞親、岡家利が岡山金山寺に書を発する。(「関ヶ原前夜~西軍大名たちの戦い」)
4/13:上杉景勝が、魚津城に篭城する諸将に書を送り、これを激励し、城の堅守を命じる。(「上杉景勝のすべて」)
4/14:羽柴秀吉が備中に入る。
4/15:八代郡一宮慈眼寺の尊長、武田勝頼に託されていた遺品を遺言に従って高野山引導院に収める。(「武田信虎のすべて」)
4/21:織田信長が安土に帰陣する。
4/23:
・魚津城に篭城する12将が連署して、上杉景勝側近直江兼続に滅亡の覚悟を伝える。
・安土城の織田信長の元に戦勝を祝う勅使が到来する。
4/25:
・羽柴秀吉が備中冠山城を攻略する。
・武家伝奏勧修寺晴豊が村井貞勝邸を訪れ、貞勝より、織田信長に太政大臣、関白、将軍のいずれかを推認するように申し入れを受ける。
5月:
・小早川隆景が安芸水軍の白井房胤らに、備中笠岡に南四郎兵衛を派遣し、大戦二艘と大筒を受け取るように命じる。
・瀧川一益が上野厩橋城に入る。
・瀧川一益の仲裁で、小山秀綱が北條氏傘下として祇園城に復帰する。
・陸奥の伊達輝宗の仲介により、三春城の田村清顕が、佐竹義重、芦名盛隆と和睦する。
5/1:上杉景勝が、佐竹義重に書を送り、滅亡の覚悟を伝える。
5/2:羽柴秀吉が備中宮路山城を攻略する。同じく亀石城も降伏、開城する。また、加茂城では城将の乃美景興が秀吉に内通して秀吉軍を城内に導こうとするも、桂広繁、上山元忠ら守備兵の反撃を受け、追い出される。
5/4:安土城の織田信長の元に太政大臣、関白、将軍のいずれかに推任するという勅使が派遣される。
5/7:
・羽柴秀吉が備中高松城攻略の為、蛙ヶ鼻に本陣を移し、水攻めの為の築堤工事を開始する。(「戦争の日本史12」)
・毛利方の河野通直が、来島村上氏の蓿葛城に付城を築き、能島水軍が城下に放火する。
・織田信長が神戸信孝に書を送り、四国攻めについて指示をする。
5/8:毛利方の能島勢が得居通幸(来島通昌の兄)の領する伊予難波正岡郷や来島城を攻撃し、両軍が交戦する。
5/14:織田信忠が安土城に凱旋する。(尾張・織田一族)
5/15:
・徳川家康、穴山梅雪らが安土城を訪問する。
・上杉景勝、魚津城救援のため、越中に出陣し、天神山城に入る。
5/17:明智光秀、備中への出陣を命じられ、安土から坂本へ帰城する。
5/19、20:織田信長、安土城内総見寺にて、徳川家康、穴山梅雪を招き、能を興行する。
5/21:
・徳川家康と穴山梅雪を伴って織田信忠が入京する。
・吉川元春が備中岩崎山に布陣する。
5/26:明智光秀が丹波亀山城に入る。
5/27:
・上杉景勝、越後に撤退する。
・明智光秀が愛宕山に入る。
5/28:明智光秀、愛宕山で連歌会を催し、亀山城に帰る。
5/29:
・徳川家康、穴山梅雪が堺に到着する。
・織田信長が上洛する。
・神戸信孝らの四国征討軍が大坂住吉に到着する。
6月:
・西讃岐、東伊予の軍勢が長宗我部元親の命により、讃岐西長尾城に集結し、聖通寺山、藤尾城を攻略する。
・陸奥伊達輝宗家臣遠藤基信が佐竹一族の北義斯に書を送り、織田信長への協力を申し合わせる。
6/1:公家衆、諸門跡が本能寺の織田信長を訪問する。
6/2:
・本能寺の変が起きる。 ○明智光秀vs織田信長、信忠●
・近衛前久、醍醐で出家して龍山を名乗る。その後、嵯峨に蟄居する。
*二条御所での戦いの際、織田信忠の小姓、佐々清蔵は「素肌で死ぬのは恥だ」と山口小弁に言い、敵兵を討ち取ってその具足を奪い取ってから切って出て討死したという。(「定本常山紀談 上」)
6/3:
・明智光秀が本能寺の焼け跡を捜索して、織田信長の遺体を探すも、発見出来ず。
・柴田勝家率いる織田軍が魚津城を攻略する。
・本能寺の変報が羽柴秀吉の陣所に届く。
・明智光秀が、大山崎に禁制を発行する。(「戦争の日本史11」)
6/4:
・本能寺の変報が越中に到来、柴田勝家ら、魚津城から撤収する。
・徳川家康が三河岡崎に帰城する。
・羽柴秀吉と毛利輝元が、人質として、それぞれ森高政、小早川秀包を交換し、高松城主清水宗治が切腹して果てる。
6/5:明智光秀が安土城に入る。
6/6:
・高松城周辺に在陣していた吉川元春、小早川隆景が撤退する。
・羽柴秀吉が備中を撤退し、備前沼城に入る。
6/7:
・滝川一益が、上野厩橋城にて、本能寺の変について知る。
・羽柴秀吉が備前沼城を発つ。
・明智光秀が、勅使の吉田兼見と安土城にて会見する。
6/8:
・稲葉一鉄父子の攻撃を受け、安藤守就の北方城が攻略される。
・上杉景勝、色部長真に本能寺の変と、越中に出馬する予定を報じる。
・毛利輝元が村上元吉に書を送り、羽柴秀吉と和議を結んだことを報じる。
・羽柴秀吉が播磨姫路城に入る。
・明智光秀が、坂本城に入る。
6/9:
・明智光秀が上洛し、朝廷に銀五百枚、京都五山に百枚ずつを献上する。
・上杉景勝が蓼沼友重に書を送り、戦死した友重の兄泰重を悼み、かつ新発田重家への対応を命じる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
・将軍足利義昭が、吉川元春、元長、小早川隆景に御内書を送り、備前、播磨方面への出兵を促す。
・羽柴秀吉が姫路城を発つ。
6/10:明智光秀が、山城洞ヶ峠に出陣する。
6/11:
・北條氏政が瀧川一益に京都の情勢を尋ね、協力を表明する。
・羽柴秀吉が、摂津尼崎に到着し、織田信孝、丹羽長秀、池田恒興、中川清秀、高山右近らに報じる。
・明智光秀が洞ヶ峠から兵を引き上げ、下鳥羽に着陣する。同時に淀城にも兵を送り、防備を固める。
6/12:
・上杉景勝、佐渡の本間一族に本能寺の変の発生を報せ、自らの佐渡出陣の意向を示す。
・羽柴秀吉が摂津富田に到着し、池田恒興、中川清秀、高山右近らと軍議を行う。
・羽柴秀吉方、高山右近の軍勢が山崎に進出する。
6/13:
・早朝、明智光秀が下鳥羽から御坊塚に本陣を移す。
・山崎合戦の際、堀秀政家臣の某の子が明智方にあり、天王山確保に動く明知方の情報を得、先んじて天王山を確保、山上から押し寄せる明智勢に鉄砲を撃ちかけ、大利を得る。(「定本常山紀談 上」)
・山崎合戦にて、池田恒興家臣森寺忠勝が奮戦し、秀吉から桐紋付の羽織を賜る。(「定本常山紀談 上」)
*山崎合戦の際、堀尾吉晴家臣の則武三大夫が敵の首を取って吉晴の前に参じた際、吉晴に「思った以上にでかした」と言われ、憤激、再度敵陣に駆け込み、首を取って戻る。吉晴、則武に無礼を詫び、大いに賞する。(「定本常山紀談 上」)
6/16:北條勢が上野倉賀野に侵攻する。
6/19:越中国人湯原国信が上杉景勝側近の見海主計助に本能寺の変の発生と越中国内の情勢を報じる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
6/20:
・織田信孝によって近衛前久が成敗されるという噂が流れる。
・滝川一益、厩橋を出て、伊勢に向かう。(「定本常山紀談 上」)
6/23:京都洛中にて、明智光秀と近衛前久からの預かり物を提出すべしとの触れが出る。
6/24:前田利家、佐久間盛政ら、能登石動山城を攻略、温井景隆らを討つ。
6/27:
・羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の四人で清洲会議が行われ、織田信長の後継者を嫡孫三法師と定めた他、明智光秀と織田信長、信忠親子の遺領配分が以下のように行われる。
 ・信忠の遺領の内、美濃を織田信孝、尾張を織田信雄に分配する。
 ・羽柴秀吉が山城国と丹波国を加増される代わりに柴田勝家が羽柴秀吉の近江北三郡(長浜城)を受け取る。
 ・丹羽長秀の領する近江中郡(佐和山城)が堀秀政に、代わりに丹羽長秀に近江高島郡(津田信澄領)と志賀郡(明智光秀領)が与えられる。
 ・池田恒興が摂津大坂、尼崎、兵庫を獲得する。
・柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興が連署で堀秀政に坂田郡二万五千石を三法師の台所領として預ける。(「尾張・織田一族」)
6/29:奈良興福寺の多聞院英俊が、日記に織田信雄、信孝兄弟の対立で諸将の軍勢の撤退の目処が立たないと記す。(「尾張・織田一族」)
7月:
・本願寺顕如が加賀石川郡の門徒に対し、織田信長が討たれた件を嘆き、その後の織田政権との関係も昵懇なので安心するよう報じる。
・北條氏直が信濃上田城主真田昌幸を服属させる。
・徳川家康が甲斐府中に着陣し、北條氏直と対陣する。
7/3:上杉勢、信濃海津城に進出する。
7/5:
・越中の諸将、上杉景勝に加賀、能登進出を促す。
・信濃に進出した上杉景勝家臣楠川将綱、西片房家が書を直江兼続に送り、信濃国衆から預かった人質の処置について申し入れる。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
7/6:奈良興福寺の多聞院英俊が、日記に天下を柴田、羽柴、丹羽、池田、堀が分捕る情勢だと記す。(「尾張・織田一族」)
8月:毛利氏が伊予河野氏の加勢のため、井原元尚に鉄砲衆を添えて派遣し、湯浅将宗に伊予への出陣を命じる。
8/9:上杉景勝、新発田重家討伐のため、春日山城を出陣する。
8/11:羽柴秀吉が丹羽長秀に書を送り、安土城の再建が遅れて三法師の移転が遅れている事を非難する。(「尾張・織田一族」)
8/12:会津の芦名盛隆が上杉景勝に書を発し、上杉軍の信濃進出を祝い、新発田重家討伐を支持する。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
8/18:上杉景勝、出雲崎に着陣する。
8/20:上杉景勝、三条城に入る。
8/25:上杉景勝、五十公野に着陣する。
9月:
・上杉景勝、領内に兵糧の供出などを命じる。
・毛利軍が伯耆羽衣石城を攻略し、南条元続を追放する。
・阿波勝瑞城主十河存保が讃岐虎丸城に退去する。
・阿波牛岐城主新開道善が丈六寺にて長宗我部元親に謀殺される。
・信濃上田城主の真田昌幸が徳川家康に帰属する。
9/1:丹羽長秀が柴田勝家に書を送る。(「尾張・織田一族」)
9/2:
・上杉景勝、新発田城を攻撃する。
・羽柴秀吉が織田信長の葬儀を行う意向を示すも、滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、長谷川秀一、織田信孝、池田恒興らが挙って反対する。(「尾張・織田一族」)
9/3:柴田勝家が丹羽長秀に書を送り、三法師の織田家督の相続などについて意見を述べる。(「尾張・織田一族」)
9/18:羽柴秀吉が吉田神社にて丹羽長秀、長谷川秀一、堀秀政と会談する。(「尾張・織田一族」)
9/20:丹羽長秀が京都の羽柴秀吉の宿所を訪ねる。(「尾張・織田一族」)
9/下:北畠信雄、神戸信孝の勧告により、徳川家康と北條氏直が和睦する。
10月:
・長宗我部勢が讃岐十河城を包囲するも、攻略はならず。
・池田恒興が摂津塚口神家に禁制を発する。(「尾張・織田一族」)
・佐竹義重が、上野館林城を攻撃する。
10/4:上杉景勝、春日山城に帰陣する。放生橋の戦いで、家臣の菅名綱輔が討死する。
10/6:柴田勝家が堀秀政に書を送り、秀吉を批判しつつ、共に北条氏を征伐しようと意見する。(「尾張・織田一族」)
10/15:羽柴秀吉が織田信長の葬儀を京都大徳寺で行う。織田信雄、信孝兄弟、柴田勝家は不参加、池田恒興は二男照政を名代として派遣し、丹羽長秀は家老を代理として派遣する。
10/18:
・羽柴秀吉が織田信孝の家老に書を発し、本能寺以来の自身の功を披露し、自身に対する信孝の態度を非難する。また、秀吉と柴田勝家の対立に関しての仲裁の労を取る事に感謝の意を示しながら、これを拒否する。(「尾張・織田一族」)
・羽柴秀吉が摂津塚口神家に禁制を発する。
10/20:堀秀政が近江神照寺に安堵状を発する。その署名に「羽柴久太郎秀政」と書き記す。(「尾張・織田一族」)
10/21:羽柴秀吉が姫路城の留守衆に書を送り、畿内情勢を知らせる。(「尾張・織田一族」)
10/22:羽柴秀吉が本願寺の下間頼廉に書を送り、織田信孝が三法師を岐阜に抑留して安土に移さない事を非難する。(「尾張・織田一族」)
10/26:柴田勝家が堀秀政に書を送る。(「戦争と日本史15」)
10/27:三木自綱、江間輝盛を討つ。
10/28:羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興が会談する。
11月:
・近衛前久、浜松に下向する。
・長宗我部元親が阿波一宮城主一宮成祐を謀殺する。
・肥前の有馬鎮貴、筑後の田尻鑑種が龍造寺氏を離反して薩摩の島津氏に支援を要請する。
11/1:羽柴秀吉が徳川家臣の石川数正に書を送り、柴田勝家と織田信孝が謀反を企てたので、織田信雄を織田家督に据える事にしたと伝える。(「尾張・織田一族」)
12月:上杉景勝、連歌会を開催する。
12/2:上杉景勝が中条一黒(三盛)に対し、父景泰の遺領相続を認める。(「上杉景勝~転換の時代を生き抜いた人生」)
12/5:島津勢が肥前千々石城を攻略する。島津家臣上井覚兼が城兵二、三百人を討ち取った他、多くの人々を生け捕ったと日記に記録する。(「雑兵たちの戦場」)
12/7:筒井順慶、池田恒興、蜂屋頼隆ら、羽柴方の諸軍勢が近江に出陣し(「尾張・織田一族」)、長浜城を包囲する。(「戦争と日本史15」)
12/9:
・羽柴秀吉が出陣する。(「尾張・織田一族」)
・柴田勝豊が羽柴秀吉に降伏し、長浜城が開城される。(「戦争と日本史15」)
12/11:
・羽柴秀吉が佐和山城に本陣を据える。(「尾張・織田一族」)
・柴田勝家の使者が徳川家康の元を訪れ、縮羅三十、綿百、鱈五本を贈る。
・松平家忠が、甲府の徳川家康の本陣を訪れ、翌日の帰陣を命じられる。
12/13:織田信雄が美濃松之木城主、吉村氏吉に書を送り、美濃への出馬の意向を示す。(「尾張・織田一族」)
12/16:羽柴秀吉が大垣城に本陣を据える。(「尾張・織田一族」)
12/20:羽柴秀吉が岐阜城を包囲する。(「戦争と日本史15」)
12/29:羽柴秀吉が山崎城に入り、そのまま越年する。



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