今日はSNSの城好きファンでの江戸城址巡りのオフ会だった。"CASTLORRY"商品の営業にも良いかな…という、趣味と実益を兼ねての外出と相成った。
本当は午前中から小石川庭園を巡るはずだったのだが、自宅の扉の補修が入っていたので、午後からの参加を決めていたのだが…いつまで経っても業者が来ない。妙だと思い調べてみたら、月曜日と間違えていた…バカだなぁ、自分。
…というわけで、昼前に外出した。途中、飯田橋の吉野家で牛鍋丼を初めて食べた。生卵に紅しょうがと七味を適量ふりかけて食べると旨い。周りの人の注文を聞いていると「つゆだく」をお願いしている方が多数。今度、自分もそうしよう。
集合場所は1時に江戸城田安門だったが、早目に着いたので、門周辺を散策してみた。田安門は、判りやすく言えば、日本武道館、北の丸公園の入り口になるわけだが、自分なんかは普段はライヴを見に行く際に夕方通る事が多いので、昼間にじっくり見る機会は意外に少ない。

軒の木材を露出させずに漆喰で塗りこんであるのは、経済力の高さを示している。しかも、田安門の場合はただ上から塗るだけでなく、波を打つような曲面に仕上げてある。他の城の城門の写真はないかな…

これは小諸城の大手門で、門自体の大きさは立派ではあるけれど、塗りこめは壁の一部にしか見られない。
城門の解説を読むと寛永十三年(1636)年の建造らしい。ちなみに島原の乱がおきる前年にあたるわけだが、それはともかく、どこかに墨で書かれているのかな…と見て廻っていたら、何と、門扉のところにありました。

門扉の金具に関しては、寛永十三年の九月に豊後国…今の大分県で大砲を鋳造する渡辺康直という職人が手掛けたと、このように彫ってあるのだ。凄い!
一人で感極まっているところで、待合わせの一時になり、いつのまにか30人ほど集合した。
「お奉行」のハンドルネームを持つ幹事さんの説明を聞きながら、田安門からその裏の神社へ。こんなコースがあるのは知らなかった…この裏側に廻ると、田安門の枡形を俯瞰でき、防御力の高さを実感できる。
続いて清水門へ。ここでは、ハンドルネーム「相州乱波かすこば」氏による解説がついた。興味深かったのは、櫓門を据えている石垣に段差がついているとの説明だった。

ちなみに外に通じる唐門には、田安門と同じ渡辺康直の名を刻んだ金具があったので、創建は寛永年間以前と思われるが、石垣の積み方は時代のせいか、担当大名の技術力の成果不明だが、こちらの方が荒削りな印象を受ける。また、清水門に関しては江戸中期の万治年間に再建されたとの記録があるらしい。
自分の想像だけど…建造当初はL字型で、櫓門に多聞櫓が接続した形式か、あるいは重層の櫓があったのかもしれない…いずれにしても、創建時は、違う外観だったように思われる。でないと、石垣の段差の存在が無意味なものになってしまうからね。
続いて、北の丸公園を横切って千鳥が淵を見下ろす位置へ出た。途中、紅葉が見られる場所があって一枚撮影してみた。

千鳥が淵の辺りは、堀底と上の落差が凄い。いわゆる崖のような感じで、石垣も一部に施されているだけだ、しかし、どうやって石を積んだのだろうか?足場を組んだのだろうが、とんでもない手間がかかったと思う。
北の丸を出ていよいよ、天守台の残る本丸に向かった。修理中の乾門(皇居への通用門の一つなので、接近不可能)を横目に、北詰橋門にて、入園用の整理券を受け取って本丸へ入った。

写真は天守台の石垣の一部。石の角が取れて丸くなっていたり、黒ずんでいるのは、江戸期の火災の痕跡を今に伝えている。本丸には、この天守台以外に、興味深い遺跡はなく、かつて壮大な御殿が営まれた広大な敷地が広がっている。
江戸城は外周部に残る堀や門を見ると、難攻不落の大要塞というべき威容を誇っているが、本丸に所狭しと建造された殿舎は、一端火災ともなれば、城内を瞬時に焼き払ってしまうという致命的な弱点を持っていた城だった。
実際、江戸城は数度にわたって火災に見舞われて自ら落城同然の惨事に見舞われている。現在の皇居の北東部にある吹上御苑は、江戸時代初期には御三家の屋敷が並んでいたものの、あまりにも火災が多いので、将軍家の避難所とするため、御三家の屋敷を吹上の外に移した上、建築物も最低限に留めて、延焼の被害を受けにくい庭園としたほどなのだ。
本丸を見てからは、汐見坂を通って二の丸庭園を散策した。さすが将軍様の庭園、紅葉にも配慮した設計がなされていたようだ。

中の門周辺の壮大な石垣や百人番所を見る頃には、大分冷えてきた。最後は大手門を出て、和田倉門址を見学、自分は和田倉門は初めてだった。
ここで一旦解散して、残った方々十数人でお酒。自分にとっては、皆初対面だったけれど、歴史や、お城を話題に楽しい時間を過ごすことが出来た。
…かくして終電近くに帰宅した。